番組構成師 [ izumatsu ] の部屋

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脳内イメージを具現化せねば

取材がある程度進むと、ディレクターに取材テープをDVDにダビングして送ってもらいます。

通える局ならばぼくが足を運び、局の編集機で取材テープを拝見します。この作業を「プレビュー」と呼んだりしますが、プレビューの機材が完備していたり、専用のコーナーを設けている局もあれば、編集機が日常業務にも支障を来すほどに数が少ない局もあります。

その場合、日常業務が終わったあとからプレビューを始めることになりますから、作業はどうしても夜となります。ヘッドホンをし、深夜までモニターと向かい合いながら見取り聞き取った取材テープの内容をパソコンに入力していく女性ディレクターの姿をときおり見かけます。

社外の人間であるぼくは、声をかけることはありません。

大変ですよね、がんばって…と、心の中で祈るばかりです。

機材の問題は、単純に資本の大きさの違いだったり、機材担当の人の考え方だったり、現場の力の強弱だったりしますが、撮ってきたモノを見直すことはとても大切なので、緊縮予算を切り裂いてでもプレビューがらみの機材は充実を図って欲しいといつも思います。

プレビューは単に大切というよりも、番組に使えるのは実際に収録してきた映像と音しかないのです。素材は撮れたモノだけ。それだけがすべてなのです。

たまに「こんな映像を撮ったはずなのに・・・おかしいな・・・」と首をかしげつつプレビューをしているディレクターがいたりしますが、現場に出ている彼ら彼女らは頭の中にイメージを抱きつつ取材にあたりますし、実際に撮るのはカメラマンなので、頭に浮かんだだけのイメージを撮れたモノと思い込むことが時々あるようです。

頭にあるイメージは取材現場で具現化すること。それが大切ですし、でも、難しい。事前に台本を作ってその通りにやってもらうことは、ドキュメンタリーでは基本的にやりませんから。

どんなにいいイメージが頭の中にあったとしても、それが映像化、音声化されてないとそれは無いモノと同じになってしまいます。これがキビシイ。

ちょっと恋愛に似てるでしょうか。心でいくら思っても、相手に届かないとそれは思ってないことと同じ。

違うかな?

何にしろ、番組に使えるのは撮れたモノだけ。それだけで番組は組み立てられていきます。


目を凝らし、耳をそばだてる

ぼくの元に送ってくるDVD、それが番組作りに使用できる映像と音のすべて(資料映像や編集後に入れるナレーションとBGMなどの効果関係は別です)となります。

料理にたとえると、それだけしか材料がないのです。それが活きのいい素材なのか、ちょっと食すにはためらわれる質のものなのかにかかわらず、材料はそれしかありません。

その限られた素材をどう料理するか、それが構成係のぼくの役割であり、与えられた使命です。

なので、ぼくがまず第一に始めること。それは、DVDにダビングされて送られてきた取材テープを隅から隅まで見ることです。

その際、特に気にするのは「ノイズ」と呼ばれる、取材テープに収録された何気ない音です。それはマイクを向けられていないときの取材対象者のリラックスした言葉だったり、鳥のさえずりだったりしますが、そうした「ノイズ」を活かすことによって、番組がグンと視聴者に近くなることがおうおうにしてあるのです。

最近、番組作りに参加して感じていることのひとつに、この「ノイズ」を大事にしない現場の人が増えてきているということ。

取材対象者の言葉も、マイクを向けたりした、きちんとしたインタビューのみで終わらせようとしたり、取材現場周辺の音の収録をしていなかったり。

そうして撮ったインタビューは紋切り型になりがちですし、映像は情感のないモノになってしまう気がします。

しかし、「ノイズ」を探すのは大変です。

特に最近は機材の性能がアップし、1本で1時間以上撮れるテープが登場。その上、現場ではがんがんテープを回す風潮があるので、ひとつの番組でまわったテープの数が50本、100本というのも別に珍しいものではないようになってきました。

映像と音の収録は、カメラマンやディレクターの思いが入りますが、記録するのは機材です。でも、収録した素材を見直し、「ノイズ」を探すのはヒトの目と耳。これしかありません。

収録時間の2倍、3倍かけ、目を凝らし、耳をそばだてて、こつこつ探す。

そんな、とてもアナログな作業が、構成作業のスタートです。


<この項は続きます(ときおりですが)>


  → 2009.05.01 「構成-スタート」

  → 2009.05.02 「構成-打合せは大事だけれど。」

  → 2009.05.05 「構成-取材対象者には会わない。」

  → 2009.05.028「構成-取材前に台本?」


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*取材対象者に叱られる。

もうかなり前のことですが、取材が始まる前、取材対象者に呼ばれ、局へ出かけたことがあります。

その席にはプロデューサーとディレクター、そして取材対象者とその後見人的な人がいました。そしてその席で、ぼくは取材対象者にこう叱られます。

「番組にすることが決まってるのに、まだ台本は出来ないのか。構成担当は何をしとるんだ!」

その言葉を聞いたときのぼくの反応は、「??」。

言われている言葉の意味が理解できなかったのです。

基本的に、ドキュメンタリーに台本はありません。「こんな風な流れになるかなぁ」という、ディレクターたち取材最前線のスタッフが肌で感じた雰囲気を元に、希望的観測の想定はできますが、『台本』はありません。

“このシーンでは、主人公に、あの場所で、こういう状況の中、こんな話をしてもらう”なんて台本があるドキュメンタリーなど、ありません。

それはドラマの世界です。

でも、この取材対象者の方は、取材されるということは、イコール「演じること」だと思われていたのです。それも、こう言っては失礼かつ申し訳ないのですが、自分がより良く見えるように撮られることを念頭に、「台本はまだか」と言われていたようなのです。

「ドキュメンタリーに台本はありません。ありのままの姿を撮らしていただき、取材が進むにつれて番組の形が徐々に固まっていくのです」

ディレクターが仕事の流れを懇切丁寧に説明します。

ぼくも同様に“ありのまま”でいてもらうことの大切さを話します。“ありのまま”が積み重なることで、一個人の生き方や心情が自然に浮かび上がる。そこには『台本』など必要ないのだと。

それでも、この取材対象者の方は、ぼくらの話す内容を理解してはいただいたものの、いつまでも首をひねっておいででした。


*カメラに慣れて、取材スタート。

さて、取材が始まりました。

“ありのままを撮る”ことに同意していただいたものの、いざ取材となるとその“ありのまま”が撮れません。

それはそうです。

ただ話を聞かれるだけでも緊張するのに、小型バズーカ砲のような形のカメラに狙われ、頭上にはモコモコした毛に包まれたマイクがぶら下がっているのです。

そんな中、“ありのまま”に振る舞えるのは希有な人でしょう。

テレビの取材は、その形や方法からして相手にバイアスを、圧力をかけているのです。本音を聞き取ることが出来るまでに時間がかかる一番の原因は、テレビに不可欠なカメラとマイクの圧力。

テレビ取材の辛いところです。

この取材対象者の場合、そのカメラ&マイクの圧力にプラスして、自分が思っているように撮ってもらおうという思いがしばらくの間は頭から離れなかったようです。

ぼくは取材現場には行きませんでしたが、のちに見た取材テープの中で、取材対象者は撮られる位置を自らセッティングし、話す内容を準備し、稽古をして撮影にのぞまれていました。

こうした、言わば準備された映像と音声は、番組には使えません。撮るだけムダなのです。それがわかっていながら、ベテランのカメラマンは根気強く撮り続けていました。

撮り続けることで、カメラに慣れ、マイクに慣れ、取材陣の存在に慣れてもらう。そしてようやく“ありのまま”が顔を出す。

それがカメラマンの狙いでした。

数日間をかけて撮った映像と音、それは全部使えない。そんな取材が続きました。それでもカメラマンはカメラを回し続けたのです。

“ありのまま”が撮れるようになるまで。

ぼくは、増えていく「使えない映像」を見ながら、カメラマンの粘りにほとほと感心しました。



テレビは映像と音が命です。
テープに収められたそれらのモノ、それがすべてです。

ぼくがそのことに気づき、可能な限り取材テープの隅から隅まで映像を見、音を聞くようになったのは、このカメラマンの粘りに出遭ったからです。

貴重なことを教えてくれたカメラマン。
そろそろ定年だと聞きました。



「台本はまだか!」

取材対象者にそう一括された番組は、主人公の自然な話と表情が印象的な物語としてまとまりました。

ムダになるとわかっていながら取材を続けたディレクター、カメラマン、そして音声さんたちの頑張りのたまものです。


粘り続けるカメラマンと音声さん、そして現場を鼓舞し引っ張るディレクターは、今も確実にいる。

熱のこもった取材テープを見るたびに、ぼくはそう感じています。


*スタッフと“同じ想い”にならないために。

番組の主人公が現存する人の場合、ディレクターから「一度、あってもらえませんか?」と頼まれることがちょくちょくあります。

そのほとんどの場合、ぼくは断ります。

その一番の理由は、ディレクターやカメラマンなど制作最前線のスタッフと同じ感覚、同じ想いになりたくないから。

いや、「なりたくない」と言うより、「なってはならない」と思っているからという方が正解でしょうか。

最前線のスタッフは自分の思いを取材対象者に投影する、というか、取材対象者に感情移入をする場合が多いのです。

それは、より深く話をきこうとする取材者としては当然のことですし、相手の心のひだに触れ、そのひだに隠れた思いを口にしてもらうには欠かせない姿勢だと思います。

いきおい、最前線のスタッフは取材対象者にシンパシーを感じることが多くなります。きっと、ぼくが取材対象者に会った場合も、同様に共感を覚えることでしょう。

それが、まずい。

ぼくが最前線の彼ら彼女らと同じように、取材対象者へ感情移入してしまうと、構成係という第三者としてのぼくの目が制作の現場に入る意味が無くなる。そう思うのです。


*「異質な眼」として。

ぼくが構成係として番組制作に携わる場合、ぼくに課せられた一番の使命は「異質な眼」を制作現場に持ち込むこと。それしかありません。

ぼくの視線、ぼくの感覚が、ディレクターなど最前線のスタッフと同じであるならば、ぼくの存在理由はありません。どうかすると制作の進行を追認するだけの「イエスマン」になってしまいます。

それは、まずい。

ぼくは制作過程の中で、可能な限り“異物”じゃなくちゃダメ。

取材現場の人間は、取材者であり、同時に取材対象者と共に当事者でもあります。でも、視聴者は第三者。第三者の眼って、結構冷たいです。

当事者同士の共感の中で作られた番組がひとりよがりにおちいることなく視聴者の共感をも取り込むには、取材対象者の言葉や映像をどんな風に織り込みつつ番組のテーマを少しずつ浮き彫りにしていくかを考えねばなりません。

そこには“異物である第三者の冷たい眼”が不可欠だと思います。

もちろん、取材陣と取材対象者とが共感共鳴しうる取材現場だけではありません。いや、そんな取材現場の方が少ないでしょう。

その場合でも、構成係は取材陣が取材対象者に持つのと同じような感覚にならない方がいいというのがぼくのスタンスです。


「そういうのもありだけど、こんな見方もあるんじゃない?」

取材を終え、いざ編集に入ってから、そんな風に言えるために、ディレクターたちと同じ感覚を持たないようにしたい。

そして、ぼくのある提案が取材対象者にとって例えばマイナスとなるようなことであっても番組全体として必要だと思った場合、取材対象者の顔が脳裏を横切ることなくその提案を冷たく口にするために、ぼくは取材対象者にはできる限り会わないようにしているのです。


でも、断れなくて会うこともあります。

そうすると、「ディレクターの言うとおり、いい人だ…」なんて気持ちになり、いざ番組の流れを考える段階になって腰が据わらなくなったりします。

心が揺れるのです。


「情に流されやすい」。

要は、ぼくの性情の根幹がただそれだけだということなんですけれども。


<この項は続きます>


*まずは打合せ。

取材が進んでいる場合、打合せに出向いてディレクターやカメラマンの話を聞き、制作側の狙いを確認します。

でも、この時点では「狙い」が明確でないことも。ひとまず取材をスタートして、「さぁ、どうしようか?」という場合も多いのです。

そういった「?」は、取材者自らが興味を持ったネタでも、または上司から振り分けられたネタの場合でも同じように出てきます。

テレビ創世期や繁栄期の制作者からは「最初からテーマを絞って取材せんかい!」と叱られるかもしれませんが、一年間に1、2本の番組を作ればOKだった古き良き時代と比べるのは、今の現場の人間が少しかわいそうかもしれません。

忙しさは強烈に増しているし、ひとつの番組に割ける時間も予算も以前に比べ少なくなっているのが現状ですから。



ぼくがこの仕事を始めたころは、制作現場のスタッフの中でぼくが一番年少のことが多かったので、打合せなども先輩諸氏に負けないよう思ったことはムリヤリにでも口にして、やかましいくらいにあ~だこ~だと言っていた記憶があります。

が、人は年をとるもので、いつの間にやら現場スタッフの中でぼくが一番の年長者に。そうなると若いころよりずっと気を遣うからおかしなもんです。

若い人は礼儀正しい人が多いからでしょうか、打合せなどでオヤジのぼくが言うことを素直に受け入れてくれる場合が増えてきてしまったのです。

これが、実はちょっとマズイのです。


*一番大事なのは。

番組作りで一番に重視すべきことは、ディレクターやカメラマンなど、取材現場に足を運び、取材対象者の言葉を生で聞いた人の思いです。

取材内容をどう並べれば、ディレクターやカメラマンのその思いを見ている人により深く、より確実に伝えることができるか。そこで頭をひねるのがぼくの役割なので、彼ら彼女らの思いをきちんと知っておかなければぼくは仕事ができません。

だから、打合せの席でも以前に比べるとぼくの発言量はものすごく減っています。できるだけディレクターやカメラマンに自分の思いやこれからの取材の狙いを話して欲しいなと思いつつ…。

それでも、スタッフの中でいちばんおしゃべり。
気を遣ってはいるんですけど。



誰の、どのような姿を、誰に、どのように、伝えたいのか?

その思いが制作現場で意思統一できるのは、取材も終わりに近づき、編集が始まってからでしょうか。

走りながら考える。

それは番組作りの仕事に限ったことではありませんが、特に取材現場では考えながらインタビューし、考えながら撮ることを重ねていく以外にはないようですね。

そこが、座して考える役割のぼくとは違うところでしょうか。



<この項は続きます>

*さて、お仕事のスタートは…。

番組の構成という仕事、そのスタートはさまざまです。

ぼくが参加する番組のほとんどはドキュメンタリー。

一番多い仕事のスタートは、「こんなネタの取材をしてるんだけど、番組にするのに手伝ってもらえます?」という形。

つまり、ある程度取材が進んで、ディレクターなりプロデューサーなりが「行けそう」と判断した時点で声がかかり、制作に参加するというパターン。

ある程度の方向性が見えていることが多いので、仕事に入りやすいパターンでもあります。


*企画の段階から参加すると。

構成係としてのぼくにとって一番やりやすいのは、企画の段階から打合せ等に参加するという形。取材がスタートする前から、スタッフの意思統合をはかりつつ進んでいくと、取材の過程で起こるいろんなことや、方針の転換などにも素早く反応できるので、精神的にも余裕が持てます。

「こんなネタがあるんだけど、どうすれば番組になるかなぁ。知恵、貸してくんない」的な電話から始まって、打合せを重ね、資料を探しては目を通し、自分なりの思いを固めて…そしてさらに打合せを…。

その結果、「ボツだね、こりゃ」ということもままあります。

あらら…。

がっかりはするけど、スタートを目指して準備したことが丸々無駄になるわけじゃないし。たとえボツになっても、企画の段階から参加していると、なんだか自分のためにもなったかなと思えるところがいいのかもしれません。

企画段階から参加する形というのは、ぼくがこの仕事を始めたころから10年あまりは頻繁にあったのですが、ここ数年はめっきり少なくなりました。

きちんとした結果=番組という形に昇華できるというめどが立つネタでないと、社内でのコンセンサスがとりづらいということもあるのでしょう。


というワケで、取材がある程度進んだ段階から制作現場に参加する場合が多い昨今、ネタに深く入り込んでいるディレクターやカメラマンの熱い思いに追いつくのが最初のひと仕事になっています。




しかし…、

「○ちゃん(ぼくのことです)、ごめん、あの話、ボツ!」

「え~っ!!! 彼の著作集、全巻読んだとにぃ!!」

「悪かね~。いつか埋め合わせするけん、許しちゃりぃ」

なんてやり取りをプロデューサーやディレクターとやっていたころがちょっと懐かしい気もします。

ちなみに、このやり取りは16、7年前のこと。当時、とっていたノートは今も残っています。どうにも、捨てる気にはなれません。

これから番組化、しないかなぁ。



<この項は続きます>
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