番組構成師 [ izumatsu ] の部屋

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♪今日のBGM=Allman Brothers Band 『 American University 12/13/70 』

ナレーションを考えているのだが・・・。

・・・・・・・・・・・・・・な~んも思い浮かばん。困った。


できるだけ、分かりやすくしたい。

ナレーションを考えるにあたり、ぼくが留意しているのはそれだけ。

--ナレーションで盛り上げてよ。

たまに、そう言われる。でも、美辞麗句を費やし、言葉で盛り上げても、
映像的に盛り上がらないのでは、なんの意味もない。
言葉が空々しく響くだけ。


--あんたのナレーションは、平易すぎる。

以前、そう言われたことがある。
そう言ったプロデューサーは、特にエンドのナレーションなど、
壮大壮麗にして欲しいと何度も言っていた。
だから、ぼくの書いたナレーションに不満だったのだ。

だけど・・・“平易すぎる”。
この言葉は、誉め言葉、ぼくにとっては。

とってつけたような仰々しい言葉で締めなければならない番組とは・・・、
結局、そういう言葉が必要な程度に、中味が乏しい番組とも言えなくはない。

映像に力があり、流れに説得力があれば、
エンディングなどナレーションを入れずに映像だけ見せていても、
見ている方には伝わるもの。
それを、安っぽい言葉で埋めたくはない。

美文を書いても仕方ない。ナレーションは、あくまで映像の“サブ”なのだ。


最近のドキュメンタリーは、ナレーションに頼りすぎ。
なにかと言うと、言葉で処理しようとする。
媒体はテレビだ。
語るべきは映像を使ってであるはずなのに、言葉でつなごうとする。

語りすぎるから、映像の説得力が落ちる。
映像に説得力がないから、語らねばならないはめになっていることもあるが。

見て面白い、興味深いドキュメンタリーは、
ナレーションがなくても意味がとれる。
登場人物のインタビューやコメントと、内容のある映像がつながれば、
それだけで面白くなる。

そんな番組では、ナレーションなぞ、無用の長物だ。


----------------------------------------


ナレーションでよく使われる、慣用句のようになっている表現がある。

--○○なのかもしれません。
--××のようです。

まだまだあるのだが、ぼくはこうした言葉を極力使わないようにしている。
特に「○○なのかもしれません」という表現は、この仕事を始めて13年間、
片手で足りるくらいしか使っていないはず。

この「かもしれない」という、あいまいな言い回しが大嫌い。
それと、そのあいまいさがかもし出す、意味のない余韻も。
余韻は言葉ではなく、映像で出したいのだ。

ナレーションでは、断言すべき。ぼくはそう考えている。
「○○なのかもしれない」ではなく、「○○なのだ」と表現すべき。
それだけの決意のようなものがないと、ドキュメンタリーなぞ、作っていられない。

かと言って、「○○なのだ」ばかり振り回しても、聞いていて不快になる。
胸中に「なのだ!」を秘めつつ、聞いていてやわらかく、わかりやすく、
押しつけがましくならないようなナレーションにする。

それが常にできれば、最高なのだが。


1時間番組のナレーションを書くのに割ける時間は、たいてい1日間。

--もっと推敲したいのにぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!

と、思いつつ、ナレーション原稿を書き、収録し、
オンエアを見て「あちゃ~っ」と思う。

あぁ、そんな思いはもうしたくないよぉ。


しかし、やっぱり、な~んも思い浮かばない・・・・。
徹夜かなぁ。

番組構成師の部屋

“ネコ助-Aoi’s Room”

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♪今日のBGM=Blink182 『Enema of The State』


昨日に引き続き、文字スーパーの話。


最近はニュースでも文字スーパーの嵐。
うっとしい文字にプラスして、へたくそな吹き替え。
勘弁して欲しい。

例えば、日曜日夕方のNHKニュース。
英語など異国語のコメントには文字スーパーが出る。
ここまではOK。しかし、その文字スーパーと同じことを吹き替えがしゃべる。
それが・・・・声優のタマゴがやっているのだろうが、技量が足りない。
感情を妙に込めたり、聞くに堪えない、気の毒だけど。

ニュース本番で練習しないで欲しいってな感じさえする。


なぜ文字スーパーを出し、なおかつ吹き替えまでするのか?
どちらか一方でいいと思うのだが、
「文字は聴覚が弱い方のため。吹き替えは視力の弱い方のため」
というのが制作者側の言い分だろう。

そう言われれば、そうかな、と思わないこともない。
しかし、ここには妙な点がある。
聴覚が弱い人のために文字スーパーを出すのならば、
ニュースキャスターのコメントにも同様にスーパーを出さなければ
“片手落ち”(放送禁止用語かな)だろう。

異人さんや一般の人のコメントだけに文字スーパーを出しても、
ニュースの全貌はわからない。
本当に聴力の弱い人への配慮を考えているのなら、
キャスターの言葉にもスーパーをつけるべきだ。

--そんなことまで、できっこないよ。LIVEなんだから。

という声も聞こえてきそう。

でも、やるならそこまで徹底すべき。
異人さん(や、一般の人)の言葉だけスーパー化するなんて、
中途半端なことはやめて。

BSでオンエアされているアメリカのCNNニュース。
昨日、見ていたら、スタジオのキャスターと四人のレポーターとの会話が、
文字となって画面の下に次から次へと流れてくる。
これはLIVE映像に文字スーパーを同時通訳的に流しているんじゃないだろうか?

やるのなら、ここまできっちりやって欲しい。


逆に、ニュースを見ていて、文字スーパーが欲しいなぁと思うこともある。
それは、キャスター(&アナウンサー&お天気お姉さん)が何を言っているか、
よくわからないとき。

ニュースでコメントを語るのは、しゃべりのプロばかりではない。
いやいや、しゃべりのプロにも、あやしいしゃべりをするヒトもいる。
聞いていてイライラすること、結構、あるのだ。

定時ニュースには原稿が用意されているハズ。
アドリブで話しているわけじゃない。
だから、事前に(または同時にでも)原稿を打ち込んで流すことが可能だ。

ニュースの内容はどの局もさほど変わりはしないのだ。
文字スーパーを出すことで、他局との差別化をはかるのはいかがだろうか?

アナウンサー、キャスターの皆さんは大反対だろうなぁ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


と、ここまで書いてたら、古賀潤代議士の学歴詐称問題がニュースで流れた。

いつまで、なにをやってんだか、という感じ。
なんとか大学を卒業しようがするまいが、どうでもエエこと。

問題が明らかになったとき、当の古賀氏が、
「軽率でした。が、詐称するつもりはありませんでした」
といったコメントを出し、あとは司直の手にまかせれば済んだこと。

「勉強はしてませんでした。テニスばっかりやってて」
てなことを言ってもよかったのだ。

それをあばちゃばアワくって自らアメリカへ。
なんとか大学の広報だか学生課だかを訪ね、卒業していないことを自ら明白に。
その間、HP上でも経歴が右往左往。

なにやってんだかね~。
すっぱ抜きに対して、きりっと対応し、仁王立ちしていればなんとかなったのに。

帰国して、街頭に立ち、雨の中、演説をぶつ。

--党は辞める、議員は辞めない、議員報酬はもらわない、大学の単位はとる・・・・。

なんとまぁ、ほんとに先の見通しができないお方だと感服する。
支持者は雨の中、涙ながらに釈明する姿に、一層の支援を決意した人もいただろうが。

雨中の演説は、なんの回答にもなってない。
一番の問題は「当選狙いのために大卒と詐称したのか」ということ。
党を離れようが、歳費を受け取るまいが、それは古賀氏が勝手にやること。
卒業単位をとること同様、ご勝手にということだ。

今、明らかにしなければならないのは、「大卒詐称が故意だったか」ということだけ。
マスコミはその点をなぜきちんと追求しないのだろうか?

古賀氏が代議士を辞めないのは、辞めると山崎拓氏が再登場するからだろう。
古賀氏が心酔する小沢一郎氏は、山崎氏が大きらいだとか。
何があっても復帰は阻止したいところだ。
そのためには、古賀氏に辞職されると困る。
何が何でも議員の座にしがみつけ!

そんなところか。

党を除籍されても、議員辞職勧告が出されても、3月15日まで
議員の座にしがみついていれば、補選はなくなり、山崎氏が衆議院へ
復帰する機会は遠ざかる。
その後、古賀氏はどうなろうが、誰もかえりみる人はいなくなる。

気の毒と言えば、気の毒なお人だ。


と、書いていたら、某自民党代議士の「甲子園4回出場」がウソで、
実は「3回だった」というニュースが画面から流れてきた。

その「3回」も、補欠としてアルプススタンドから応援していた、
つまり、ベンチメンバーではなかったという。
これまた虚偽だ!と、いきり立つ朝ワイドの皆さま。

・・・・あほくさいなぁ、ほんま。
そんなことを解明&告知することに時間とカネを使うとは。
視聴者が喜ぶと思うからこそ、制作者側はそうした情報を流すのだけど。


この際、当選議員全員の選挙公報に掲載した経歴をすべてきっちり調べれば?

ボロボロ“虚偽”が出てくると思うよ。



♪今日のBGM=Nick Drake 『 Pink Moon 』



最近、気になること。・・・・・・・文字だらけの画面。

どうしてこうも、文字で埋めたがるのだろう?

先日、ナレーションの収録に立ち会ったときのこと。
1時間のドキュメンタリー。
初めて見る文字スーパー入りの映像を見て、びっくり。
日時、場所を示すスーパーはもちろん、登場人物の言葉まで
文字スーパーがつけてある。

びっしり、文字だらけ! 驚いた。

たいていの場合、ぼくは文字スーパーを入れる前、
ほぼ編集済みの映像をVHSで見ながら、自宅でナレーションを書く。
だから、スーパー入りの映像を見るのは、ナレーションを録る時が
初めてになることが多い。

20代の若いディレクターだったので、ちょっと不安だったのだけど、
ここまでびっしりになるとは・・・・。

どうもわからない。
なぜ、映像の良さを活かそうとしないのだろう?

誰かがしゃべる。その言葉を文字で画面の下に流す。
その文字を読む視聴者は、しゃべる人の表情を見ることはできない。

ヒトの目玉は、カメレオンのように左右独立して動かない。
片目で画面下の文字、それも小さな活字で2行にわたる文字を読み、
その意味をとりつつ、一方の目でその言葉を語る人の表情を読み取る。
そんな芸当は、たいていの人にはできないのだ。

文字を読むか、表情を見るか、どちらかしかできない。
ということは、どちらかを捨てるということになる。
多くの場合、視聴者は文字を読むから、言葉を発する人の表情を捨てることになる。

惜しい。
せっかく、いい表情で語っているのに。

画面を文字で埋めるのは、ここ数年の“はやり”だ。
バラエティだけでなく、ニュースやドキュメンタリーでも、
「必要ないだろ」と思う文字がどーんと出る。

うっとおしくてしょうがないが、視聴者の注意をひきつける
(と制作者側が思っている)限り、この風潮は続くのだろう。

しかし・・・・。

インタビューに文字スーパーをつけると、視聴者は文字を読むことに集中する。
どのような人が、どのような表情で、どのような口調で、
その言葉を発しているのか?
そこに注意は払われない。
語る人の表情は、文字スーパーのバックと化してしまう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


人は言葉だけで語るわけじゃない。
目で語り、口元で語り、顔全体で語る。
手で語り、背中で語り、体全体で語る。
使えるあらゆるものを総動員して、人は喜怒哀楽をあらわす。

そこに、文字スーパーがびっしりとかぶさる。
見ている人の目はその文字を読むことに集中し、
意識は文字の意味を解析することに費やされる。
真の喜怒哀楽は、見ている人には届かない。

あぁ、もったいない・・・・。
なんのために取材したのやら。

たとえ、語る言葉が聞き取れなくても、語っている意味はわかる。
その感じ取られる意味に、見ている人は心を動かされる。
そんな時もあるのに。

語る意味がわからないと番組の流れが滞る場合。
ぼくが文字スーパーを必要だと思うのは、そんな場合だけ。
必要最小限、ちょっと少ないかな?と思うくらいにしたい。

例えば方言であっても、楽しそうとか辛そうとか、
なんとなく雰囲気がわかればいいというところでは、
できるだけ文字スーパーを使いたくない。

いい雰囲気のところに、どーんと文字が登場するのがどうにも白けるのだ。
しかし、最近は、隙あらば、という感じでスーパーが入る。
文字を読むためにテレビを見ているワケじゃないのに。


カメラマンは、怒らないのだろうか?
文字スーパーをどーんと出される。
それは、撮った映像を汚されること。
されらに言えば、お前の撮った映像はつまんないよ、と
言われているようなものだ。

映像で勝負。それがテレビ。まず、映像ありき。映像がすべて。

映像の深みで人の心を表現する。それがカメラマンの役割のはず。
それが今や、何か撮れていればいい、という意識に
なりつつあるんじゃないだろうか。
ディレクターばかりじゃなく、カメラマン自身も。

素人のビデオの方が人の心をとらえている。それじゃあまりに情けない。

感情を表現するのは、やはり写真に限る。それじゃ腕を磨く意味がない。


テレビカメラマンの皆さん、奮起せよ! 怒れ!
自ら撮った映像を、ディレクターにされるがままにしておくな!

番組構成師の部屋

“ネコ助-Aoi’s Room”


♪本日のBGM = Oysterhead 『 The Grand Pecking Order 』

いやいや、日記、さぼったさぼった。丸々10日間。

他県での編集。東京で泊りがけの資料探し。
東京から戻る途中に、ナレーション収録で立ち寄り。
夜中に帰って翌日は、頭のイタイ打ち合わせ・・・。
などと続いて落ち着いたのが日曜日。
んで、月曜日はまた打ち合わせ・・・。あぁ、体と脳みそがだるい。

資料収集はまだいいのだが(でも、お役人的な対応の遅さにストレスはたまるけど)、
相手があり、時間に追われる編集&打ち合わせは精神的にしんどい。
打ち合わせ、会議と名の付くものは、長引けば長引くほど、収集もつかず、まとまった結論も出ない。

--とっとと進めて、さっさと終わろうよぉ。

そう思っているぼくは、打ち合わせではしゃべる方に回ってしまう。
えらい方は「う~ん・・」と考え込み、そのまま。
どうかすると他の話題に流れてしまう。これまたストレスがたまる。

そんなこんなで昨日は一日、コタツでごろごろ。
朝から寝るまでテレビ三昧。おかげでいろんな番組を見ることができた。


ここ10日でがっかりしたこと。
それは映像関係へのお偉いさんの介入。

ある番組には、子どもたちに命の尊さを教えるシーンがある。
人間は、植物にしろ動物にしろ、他の生き物から命を受け取らなければ生きてはいけない存在であること。
だから、食事をとる場合には、自らの命を支えるために消えていった命に感謝の気持ちを思い出して欲しい。
そんな意味を込めて、子どもたちが育ててきたニワトリを解体するシーンが番組に入れられた。
(そのニワトリは当初から解体するために育てていたもので、子どもたちがペットとしてかわいがっていたものではない)。

いざ、ニワトリを絞めるシーン。ニワトリの頚動脈を切り、絶命させる。
その映像に続いて、見つめる子どもたちの表情が続く。
初めて見るニワトリの最後。
自分たちが日々食べているニワトリもこんな風に誰かの手で絞められ、さばかれている。
そのことを子どもたちはこの日、初めて知る。

命の重さ。
自分たちの命は、他の命によって支えられている。
その事実を子どもたちが知るという大切なパート。

この流れの中で、冒頭の、ニワトリの頚動脈を切り、絶命させるシーン。
そのシーンをカットしろ、というお話なのだ。

頚動脈を切り、絶命させる・・・文字で書くと悲惨な映像に聞こえるが、
実際はカメラも気を遣っていたのだろう、遠めに撮影されている。
ナレーションで「今から、ニワトリの命を断ちます」といった説明をしないと、
何をやっているか、よくわからない程度の映像だ。

それでも、お偉い方々は、丸々カットしろとおっしゃって引かない。

スポンサーの試写は終わっていた。その席ではなんの異論も出なかったという。
逆に「きちんと見せてもらってよかった」というのがスポンサーの意見だった。
だから、“悲惨な”映像をカットしろという命令は、スポンサーを意識してのことではない。
となると、考えられるのは、視聴者からの“お叱り”だ。

--あんな映像を放送するとはけしからん!

そんな“お叱り”が、お偉い方々はコワイのだ。
それを聞いて、つくづく情けなくなった。
確かに視聴者からのクレームは気にかかる。
しかし、クレームが予想されようとも、入れなければならない映像はあるのだ。

上記の番組の中で、首を切られる時の映像を入れると入れないとでは、
子どもたちのリアクションの説得力が大きく違う。
戸惑い、恐れ、遠巻きにして顔をしかめる子どもたちの様子が、
ぜんぜ活きてこないのだ。

子どもたちは当初、遠巻きに見ていたものの、
慣れてくると解体中のニワトリの肉をつつきながら、

--これが食道。ぷにぷにしとう。
--スーパーに並ぶまでに誰かがこんなこと、しとるんよ。

などと話し出す。
その子どもの興味の表れ方も、その導入となるカットがないと、軽くなってしまう。

何を考えているのやら・・・。困ったもんだ、お偉い方は。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


こんな思いをすることは、残念ながら結構、多い。

以前、麻薬に染まった女性を追った番組を手がけた。
若い頃からマリファナや覚せい剤などを使用していた女性。
その女性は、薬漬けの生活から抜け出そうと一念発起。
その過程で男性と知り合い、妊娠する。

出産予定日が近づくにつれ、女性の不安は高まる。

--クスリをやっていたことが、子どもに悪い影響を与えないだろうか・・・。

そんな思い、後悔の念にとらわれる。
その思いの中で、女性はこんな意味のことを口にする。

--五体満足だったら、それだけでいい。指がちゃんと5本あれば、もうそれだけで・・・。

ここにお偉いさんのチェックが入った。
指が5本ない人に対して、差別にあたる恐れがあるというのだ。

ディレクターから理由を聞いたとき、唖然とした。
アホじゃないかと思った。

この女性の言葉を聞いて、「自分に対する差別だ、侮蔑だ」と考える、指が5本ない人がいるだろうか?
仮にいたとして、女性のこの言葉に対し、差別だとする人のクレームは正当なものだと言えるだろうか?

ディレクターは子どもを持つ女性で、自分の妊娠中の経験からも「五体満足」という女性の言葉は本当によく分かるという。
だからこそ、この言葉を入れた。

覚せい剤などのクスリに頼っていた、弱い頃の自分。
その自分が身ごもり、今、親になろうとしている。
その時に襲い来る、これまでの生活への悔悟と出産への不安。

--五体満足だったら、それだけでいい。指がちゃんと5本あれば、もうそれだけで・・・。

そんな女性が発したこの言葉には、心の底からの思いが表れている。
だからこそ、人の心をうつ。

それを「カットしろ」と言った、お偉い男ども。
クレームを、何か言われることだけを遠ざけようとする、肝の据わらない男ども。

同性として、ほんっとにガックリした。
事なかれ主義で仕事ができる。いい立場である。

女性ディレクターも、ぼくも抵抗したけど、ダメ。
「カットしろ」の一点ばり。
結局、オンエア直前にその部分をカット。
編集しなおす時間はないので、番組の流れがその部分で奇妙に飛ぶ。
深みが消える。

情けなくてしょうがない。


そんな“自己規制”の多いこと。
犯罪者、犯罪被害者への人権侵害には信じられないくらい鈍感なのに、
クレームを受けることには過剰に敏感。


自らの保身だけが、判断の基準となってしまっているのだろうか。



番組構成師の部屋

“ネコ助-Aoi’s Room”


♪今日のBGM = Ten Years After 『 Undead 』


ちょっと、バテ気味。

おととい、木曜日は、県外のプロダクションで編集。

昼過ぎに行くと、ちょうど粗編集があがったところ。
正味時間を6分程度オーバーしている。

アタマから見せてもらうと、前半が厚く、後半が薄い。

前半は、いろんなものを丁寧に網羅し過ぎ。
後半は、タイムが気になったのか、そっけなさ過ぎ。

前半で10分カット。余分にカットした分、後半に追加するとバランスがとれるかな? そんな感じ。

カットしたり、入れ換えたりするところをディレクター氏と話し合う。
2ヵ所、ディレクター氏と意見が合わず。
どちらも、番組の主題に関するシーン。

その2ヵ所のうち、ひとつをすべてカットしたいとディレクター氏は言う。
それはアカンとぼくは言う。

--それをカットすると、主人公たちがなぜそんなことをしているか、
--見ている人に分からなくなる。

というのがぼくの主張。
この部分がなくなると、前後がすんなりつながって、見ていて気持ちがいい。
しかし、主題に関わる重要な要素ひとつが丸々欠けてしまう。
カットしたいというディレクター氏の意向、受け入れるわけには、ちょっといかない。


もうひとつは、番組で最も印象深くなるべきパート。
その部分が異様に薄い。
主人公たちがなにをやっているのか、どんな思いでいるのか、さっぱりわからない。

--なんでこんな編集になったの?

ディレクター氏にそう聞くと、

--映像が、ぼく的に気に入らなかったから。

という返答。

この日の取材は、普通のテレビカメラ(ENGと呼ぶ)ではなく、デジタル・ビデオカメラ。確かに画質はENGに比べると落ちる。
しかし、これも、構成担当としてのぼくは、受け入れ難い。

1時間の番組には、2、3回の山がある。というか、意図的に山を作る。
きちんとした山が無理なく作れれば、その番組は見ていて退屈しない。
ディレクター氏が映像(素材)が気に入らないと意図的に薄く編集したパートは、
この“山”のひとつだ。
それが山ではなく、ちんまりした“丘”になっている。

丘になった理由が、素材が全くないとかいうのならばまだわかる。
しかし、素材が気に入らないというのは、この場合、理由にはならない。

ここは番組の主題として、“入れねばならない”パートなのだ。
ここを薄くすると、山が丘になるだけでなく、見ている人に主題が伝わらなくなる。

素材が気に入らなくとも、主題を伝えるためには、
その気に入らない素材を駆使して、自分(制作陣)も納得いくように作りあげる。
それがディレクターの役目だ。

ここも、ぼくの役目として、引くことはできない。

--中途半端な“丘“を作るくらいなら、全部カットした方がいい。
--この見せ方じゃ、視聴者を混乱させるだけ。

ぼくの言葉に、20代後半のディレクター氏、ちょっと困る。
その表情を見つつ、因果な商売だなぁと思う。
異論をはさむのがぼくの役目。
番組を目にする人に、制作側の意図が伝わるように心を砕く。それが仕事。

「これが一番いいんだ」と思って編集しているディレクター(と編集マン)に、
「それじゃ、アカン」と口をはさむのは、結構、きつい。

まぁ、いっか、それで。ディレクター氏も満足してることだし。

そう思うこともたびたび。
しかし、そこで思ったことを主張しなければ、ぼくは必要のない存在となる。
そりゃ、困る。


このディレクター氏、ぼくのような外部のライターと仕事をするのは、たぶん初めてなのだろう。
これでいいと思ったところに、ぼくがなんだかんだと横やりを入れる。
その呼吸がつかめず、戸惑いが見える。

申し訳ないけど、慣れてもらうしかない。


結局、その日のうちに本編集は終わらず、「残りはよろしく」と最終の特急で帰る。
ホントは立ち会っていたいのだが、翌日は朝から打ち合わせだ。

編集があがったらVHSにダビングして送ってもらうことに。
どんな風に仕上がるか、ちょっと不安でもある。

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で、昨日。ネコ助、手術の日。

おしっこぴっぴの時期が過ぎ、不妊手術をすることに。

朝、10時頃、近くの動物病院へ連れて行く。
ネコ助、不穏な空気を察知したのか、カゴの中で固まっている。

動物病院の皆さんは、先生も看護婦さんも、みんなやさしい。
先生の腕には、無数のひっかき傷や噛み傷がある。
動物が好きじゃないと出来ない仕事だ。
人間の病院の先生は人間が好きとは限らないように見えるけど。

--夕方、5時過ぎに連れにきてください。

近頃は、不妊手術も日帰り。先代のネコ助の時は、数日間入院した。
先代が手術したのは、もう20年前のこと。技術が進んだのだろうか。


街での打ち合わせを終え、駅から帰る途中、動物病院へ引き取りに。
手術を終え、全身麻酔が覚めようとしているネコ助が看護婦さんに抱かれて出てくる。
傷口をなめないようにとつけられたエリザベスカラーに埋まる頭に光る目玉は、
瞳孔が開きっぱなし。黒目がまん丸だ。

生まれて最大のショックには違いない。
子宮と卵巣をとってしまうのだから。大手術だ。
おなかの3センチ弱の傷口は、1週間ほどで吸収されるという糸で縫われている。
その傷を見ながら、かわいそうだなぁ、と、やっぱり思う。

でも、家ネコとして生きるからには、仕方ないよな・・・・。ゆるせ。


アオ・カラー付き

そして、今日。
こんこんと眠るネコ助。


昨晩は麻酔から覚めると、
カラーをひきずりながら一晩中うごめいていた。


その疲れが出たんだろう。


時に、はっと気づいたかのように体を起こし、毛づくろい。
しかし、悲しいかな、舌が自分の体に届かない。
カラーの内側を懸命にぺろぺろ。ちょっと気の毒。

傷口がきちんとふさがるまでほぼ1週間。
その間、カラーをつけた“えりまきネコ助”でいなくちゃならん。

性別不詳となったネコ助。
無事に元の暴れん坊へ戻りますように。


番組構成師の部屋

“ネコ助-Aoi’s Room”

アオ肉9


「今日もあったか。ねむかぁ・・・」






あまりにぽかぽか。ほとんどネコ助状態。


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昨日は他県の局でラフ編集。
今日も編集だけど、他の用事で立ち会えず。
ディレクターと編集マンが、編集室に閉じこもってがんばっているはずだ。

編集室のデスクには、ナンバーをうった取材テープが、ずらり、並んでいる。その数、およそ100本。
20分テープが25本程度、残りは40分テープ。総計3300分程度。
ラフ構成をベースに、このテープ群からあれこれ映像や語りを拾い出し、
あ~だこ~だと並べ、正味51分くらいの番組にする。

昨日、今日、明日とラフ編集。
昨日中にラフ編集があがり、昨日、全体を通して見て、不要な部分をカットしたり、
順序を入れ替えたり、差し替えたりしながら仕上げに近づける予定。

でも、やっぱり予定は予定であって、予定通りに行くことはめったにない。
乱暴に平均すると、番組1分間の編集をするのにかかる時間はおよそ1時間。
正味51分だと、50時間という計算。
そうしてあがったラフ編集が映像としての叩き台。
それを叩いて、磨き上げて、番組となる。

映像の叩き台ができあがると、取材テープに戻ることはほどんどない。
それが時々、気にかかる。
今回の場合、50時間以上のテープがまわっている。
その中に、今、叩き台に使っている映像よりもぴったりの映像があるんじゃないか?
もっと心に染みる語りがあるんじゃないか?

そんな思いに、後ろ髪を引かれる。

そんな思いにならないように、取材テープを見て、インタビューや語りを聞いているはずなのだけど、
ずらりとならぶ100本ほどのテープを見ると、どこかにいい素材が眠ったままになっているような気がしてしまう。

しかし、思い切りは必要だ。
どこかにもっと大きなダイヤモンドが埋まっているかも、などと思っていても仕方ない。
捨てることが、いいモノを作るための必須条件だ。

捨てるといえば、叩き台はオンエアよりも10分は長くなる。
この10分間をどう効果的に捨てることが出来るか。
それが番組の出来上がりに直接影響してくる。

以前は、ぼくがいらないと思うシーンをかなり強引に主張していた。
が、最近はちょっとやり方を変えた。まず、ディレクターに考えてもらう。
考えてもらってから、ぼくの思うことを言う。
それは、ぼくが主張したことに頑として異を唱えるディレクターが少なくなってきたから。
一緒に仕事をするディレクターのほとんどがぼくより年下になってきたからかもしれないし、
それが今の若い人の気質なのかもしれない。

しかし、それではちょっと困るのだ。

--自分は、なにを、どう見せたい。

そのしっかりした思いがあって初めて、番組は番組として成立するし、ディレクターはディレクターたり得る。
その思いがあって初めて、ぼくが主張することも意味を持つ。
ぶつかり合いがあって初めて、短い間に番組を研磨することができる。

そういう充実した制作時間を過ごす機会が、最近、減ってきている気がする。

少しさびしい。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ここまで書いて、プロデューサー氏から電話あり。

--今日、打ち合わせだった。もう、相手が来てる。今から来れる?

あらら、いつも通り。
連絡するのを忘れてた、相手が来て思い出した、だと。
困ったおじさんだな~。

お尻が軽いのはぼくの取り得だけど、今から動き出しても打ち合わせ場所に到着するのは、ほぼ2時間後。
それまで相手方を待たせるわけにはいかん。

結局、プロデューサー氏ひとりに応対していただくことに。

まだ一度も相手方と会ったことがない。このままロケになだれ込んでいいのだろうか?

なにやら、どっと疲れたな・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


明日は10分間を切る作業。
若いディレクター氏は、きっと悩むことだろう。

その思いに十二分に耳を傾けつつ、いらないものはいらないと言わねば。

それがぼくの役目だから。

♪今日のBGM = Beatles 『 Let It Be...Naked 』


ぽかぽか、あったか。
冬のこういう日はダメ。アタマがぼ~っとして使い物にならない。

仕事をしようと、一応机に座っては見るものの・・・・。 ダメ。
なにが書いてあるのやら、さっぱり。ふと気がつくと、同じ箇所を読んでたり。

俗に(ぼくだけかもしれないが)“低気圧アタマ”と呼ぶ。
今日は高気圧が張り出してきたからだけど、要するに気圧の変化に敏感。
医者に言わせると「適応が遅い」となるのだが、まぁ、どちらでもいい。
気候が急変すると、アタマがボケることには違いない。

きっと、脳内神経伝達物質の分泌が減るか増加するかしているのだろう。
人間の思考が化学反応の結果だとする説を正しいと感じる時でもある。

漫画家の藤臣柊子さんは作品の中で、この、脳みそ系の変動を、

--ダウナーの大波の中で、ひとりビッグウェンズディ状態--

と表現されていた。さすがによく言いあてている。
体験派は「うむうむ」とうなずかれるに違いない。

ぼくの場合、ビッグウェンズディ状態までは行かない。
パドリングの最中、小波に巻かれてごろごろあぷあぷ、ぐらい。
“ひとりリトル・ウェンズディ”だ。

こんな時、なにかを考えなくてはならない作業をしようとしてもムダ。
それはもう十二分に経験済み。あたふたしてもしょうがない。

なんばすっかなぁ・・・・と思っていたら、AMAZONから小包。
注文していたCDが届いた。
遅まきながら、『Let It Be...Naked』。

--フィル・スペクターのオーバー・プロデュースを取り除き、『Let It Be』が丸裸!

などと評判を集めたBeatlesの“新作”。
こりゃいい時にきた、とさっそく聴く。

--????

これまでの『Let It Be』と、どこがどう違うのか、よくわからない。
“小波でごろごろあぷあぷ状態”だからわからないのじゃなくて、これまでの盤を聞き込んでないからだろうけど、変化を感じ取れない。

わかったのは、“ロング・アンド・ワンディング・ロード”のアレンジと、“レット・イット・ビー”のギター・ソロぐらい。
“レット・イット・ビー”のギターは、高校時代、密かに練習したからわかる。

一曲一曲、聴き比べれば変わっているんだろう。
でも、そこまでするまでもない。どれも、やっぱりいい曲だ。

しかし、『Naked-“裸”』とは、ちょっと言い過ぎみたい。

--まだ少し服を着てるよ。セミ・ヌードぐらい。

そう言った友人がいた。その通りだと思う。


Beatlesと一緒に届いたのが、デイブ・メイソンの、
『It’s Like You Never Left』と『Dave Mason』の2in1CD。

davemason

特に『It’s Like You Never Left』は、ぼくが一番愛聴してきたアルバム。
発表されたのは、もう、30年以上前になる。

そして、デイブ・メイソンは、ぼくが今まで行ったライブの中で、ベストのステージを見せてくれたミュージシャンでもある。

場所は渋谷公会堂。ぼくがはたちの頃のこと。


このアルバムジャケット。ヘッドの弦の間にタバコを差してギターを弾く。
これにかなり憧れた。これがやりたくて、タバコを吸っていたようなもの。
マネできたのは格好だけで、腕は一向に上達しなかったけど。

ギタリストの同じような写真をよく見るが、ぼくはこの写真が一番好きだ。

数年前、ぼくがUターンした街に、デイブ・メイソンがやってきた。
四半世紀ぶりに目にする彼は、たっぷり出たおなかにギターを乗せて弾いていた。
でも、その音色と、ボーカルは健在。嬉しかった。

ゲストは、なぜか柳ジョージ。
デイブ・メイソンとのツイン・リードと枯れたハーモニーは、聴かせた。


ミュージシャンに定年はない。
いつまでも魅惑的なメロディを紡ぎ出せるわけでもない。
才能の枯渇におびえながら、それでも好きな道を歩むしかない。
ハード。だが、うらやましいような人生でもある。

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♪BGMチェンジ。

Dave Mason 『 It’s Like You Never Left 』


たまにはライブに行きたい。

いなかにひっこんでから、とんとライブに行かなくなった。
いろんな外タレ(死語)がやってくるので、行こうと思えば行けるのだが、行く気になれない。
“一曲目からいきなり総立ち”に、ついていけないのだ。

ぼくがよくライブに行っていた頃は、“いきなり総立ち”ではなかった。
それなりに、徐々に盛り上がっていったもの。

いきなり総立ちというのは、演ずる方としてはどうなのだろう。
もし、ぼくがステージに立つ側だとしたら・・・。
ものすごく違和感を感じるような気がしてしようがない。

ぼくが初めて行ったライブはレインボーだったが、あのハードな音楽でも“いきなり総立ち”ではなかった。

その初めてのライブで、リッチー・ブラックモアはお決まりのギター壊しに続き、アンプをぶん投げ、破壊した。そして、そのアンプをアリーナの客に向かって投げつけた。

ライブの帰り。深夜の高田馬場駅前を歩いていたら、壊れたアンプを喜々として運ぶ学生らしき3人組に遭遇した。
きっと今では、大切な大切な、青春時代の思い出の品になっていることだろう。


“いきなり総立ち”同様、“アンコールねだり”というのも、ついていけない。
アンコールはステージと客席が一体となって高揚し、その先にある“おまけ”。
あって当然のモノじゃない。
しかし、ステージを楽しんでいながら、アンコールがないと「金返せ!」とのたまう客が増えてきたのには閉口する。

日本武道館での、ZZトップのライブ。
ハードなブギーのリズムに乗せて、モニターをはめ込んだギターが回転したり、MTVでおなじみとなったアクションを見せたりと、楽しくホットなステージだった。

客電が灯ったあと、ぼくの数列前の若人たちが騒ぎ出した。
アンコールがないとわめいている。と、いきなりふたり、殴り合いを始めた。

周囲の客に止められたものの、片方は頬から血を流している。
先に手を出した方はというと、座り込んで泣き出した。

なにがなにやら・・・。
見ていてよくわかったのは、アンコールをやれと主張する男と、いいライブだったじゃないかと言う男、このふたりのケンカだったということ。
で、アンコールねだり男が殴りかかり、相手を流血させて、泣き出した。

やっぱり、なにがなにやら・・・。


今、行くなら、いきなり総立ちでもない、アンコールねだりもない、心安らかな、しかしホットな、そんなライブにしたいもの。


となると、AORかなぁ・・・。


番組構成師の部屋

“ネコ助-Aoi’s Room”


♪今日のBGM=Radiohead 『 Amnesiac 』

今日も見た。  駅伝。

今日は都道府県対抗女子駅伝。
結果は兵庫県がぶっちぎり。連覇を達成した。

おもしろいなぁと思うのは、強い選手と普通の選手の体型の違い。
普通の選手と言っても、県の代表として全国大会に出るのだから、それ相応の実力の持ち主に違いない。

しかし、上位を走る選手と比べると、明らかに体が絞れていない。
ぷにぷにしているし、まだまだ重そう。走るための体型にはなっていない。

テレビは横へ少し広がって映る。
以前、スタジオで収録の準備中、ふとモニターに映った自分自身の姿に絶句したことがある。
他人のことを「ぷにぷに」などと言ってはならない体型だった。

ホンモノは“でぶや体型”ではないのだが、テレビカメラを通して映し出された姿は決して友人知人には見せられない醜態そのもの。
芸能人やアナウンサー。日々、カメラの前に立つ皆さんの度胸と日々の精進に、自然と頭が下がる体験だった。

駅伝で下位を走る若き女性たちも、ぷにぷにの何割かはカメラのいたずら。
それを思うと、強い選手たちの体型の異常さが逆に気にかかる。
画面で見る以上に、彼女たちはやせている。
あそこまでがりがりに絞らなければダメなのか?

脂肪をぎりぎりまで絞りに絞り切り、そこからトレーニングで必要最小限の筋肉をつける。
そうすると、あんな“走るための”体になるのだろう。

しかし、そこまでしてやるスポーツというのも・・・・。

楽しませてもらってて申し訳ないけど、ひどく体に悪そうだ。

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沿道には応援の人たちが鈴なり。
今年の箱根駅伝なども見ても、駅伝もずいぶん人気が出てきたと思う。

不快なのは、テレビカメラに向かって手を振るやから。
今日は、携帯片手に手を振る若人もいた。
友人と「映ってるかぁ!」などとはしゃいでいるのだろう。

自己顕示欲を満足させるために、スポーツ中継を利用するのはヤメて欲しい。
まぁ、見ている人たちは、その行動の愚かさを冷笑するだけだけど。

街の風景を中継する時なども、テレビカメラに向かってVサインをする子どもたちが必ずいる。
わらわらと集まり、われ先にとVサインをし、奇声をあげる。

子どもたちだけならまだしも、大人の仲間入りをしようかという若人たちも。
最近は、こちらの方が始末が悪い。

事件現場からの中継。真剣な顔でレポートする記者。
その後で、若人たちがバカ騒ぎ。

--あぁ、日本のミライは暗い。

不快を通し越して、情けなくなる。

他人の痛みを自分のこととして受け止めろ、などと忠告するつもりはサラサラない。受け止められず、感性を磨けずに、結局困るのはその若人たちなのだから。

画面を汚さないで欲しい、仕事のじゃまをするなと思うだけ。


Vサインの子どもたちにしろ、バカ騒ぎの若人たちにしろ、テレビカメラにこういう反応をするのは、どこの国も同じだろうか?

他国の様子も番組やニュースでしか知りようがないが、サラリと流す子どもたちもいれば、大人たちがなんだなんだと集まってくる国もある。
しかし、我が日本人ほどに愚かさ丸出しの反応をする人々に、あまり出くわしたことがない。

なぜ?
ぼくたちは、たくさんの人に包まれるだけで気分が高揚するのだろうか。
あまりにお手軽な気分発散。

駅伝にしろ、事件にしろ、そこで気分を発散するのは、他人のフンドシで相撲をとるより情けないこと。
自らの情けなさを、電波に乗せて全国へ発信しなくてもよかろうに。


ちっぽけな、しかし、確信犯的な“愉快犯”。
これもテレビが生んだ“罪”のひとつなのだろうか。

番組構成師の部屋

“ネコ助-Aoi’s Room”

♪今日のBGM=
  『 Say It Loud! A Celebration Of Black Music In America』

着メロをかえる。

ジリオラ・チンクェッティ 『雨』
  ↓
ポルノ・グラフィティ 『メリッサ』

音楽(洋楽)を聴き始めた頃の懐かしきメロディから、アニメ『鋼の錬金術師』のオープニング・テーマへ。

『メリッサ』、これは、ほんとにいい曲。
残念ながら、今日の放送から(?)、L’Arc-en-Cielの曲へ変わってしまったが、ポルノ・グラフィティのこの曲の方がアニメのオープニングとしても、ひとつの曲としてもよくできている。
まぁ、個人的な嗜好の問題なので、大反対!という人も大勢いるに違いないが。

ポルノ・グラフィティのボーカルの声が、ぼくは好き。
『メリッサ』以外は、曲のタイトルもぜんぜん知らないのだけれど、たまに耳にすると「お!」と残るのだから体質・感覚にあっているんだろう。

しかし、最近の若人が好きなミュージシャンの欄などに「ポルノ」と書いているのを見てドキッとすること、たびたび。
その3文字を見て、「すわ、日活!」と反応してしまうのは、おやぢの証拠である。


ジリオラ・チンクェッティの『雨』。
2年くらい前、VITZ(トヨタ)のCMに使われておやぢたちの胸を“きゅん”とさせた。
ぼくのその例にもれない。シングルレコードも持っていた。370円の時代だろうか。

その懐かしのレコードも今はない。学生時代、何かの理由(詳細は忘れた)で、当時持っていたシングルすべてを車に積んで、真夏の炎天下に放置。一枚の例外もなくぐにゃぐにゃに。悲しかった。

『雨』は、確かサン・レモ音楽祭の入賞曲。日本語でも歌っていた。懐かしい・・・・。


しかし、着メロをかえても、実用的にはあまり意味がない。
鳴らすことはめったにないからだ。
携帯を使うようになってから、外で着信音を鳴らしたことは一度もない。
常にマナーモード。
ぴろぴろ鳴らすのは、やかましくて、みっともなくて、イヤなのだ。

だから、ぼくは携帯をジーンズのポケットに入れている。
太ももやお尻にピッタリくっつけておけば、振動で着信がわかる。

と言って、列車の中などでよく鳴る携帯に、さほど腹がたつわけでもない。
「デンワダヨ」というドラえもんの声にあわてて反応する終電の酔っぱらいなぞを見ると、微笑ましくもある。

腹がたつのは携帯に出たあとの話し方。要件が終わればとっとと切ればいいものを、ど~でもよさそうな話をぎゃははとしている、その態度に腹が立つ。
非常識、社会に生きるセンスに欠ける人間は、年齢や性別にあまり関係がないようだ。

今は電磁波か何かを出して、通話中の携帯を切ることができる機器があるとか。そヤツを携帯して、切りまくってやろうか。
電波法に違反するかしらん?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


3曲90円(安くなったなぁ!)の着メロで遊んでいたのは、仕事が進まないから。
逆かな。
遊んでいるから進まないのだ。

とにかく、仕事は進めねば。
送ってきた取材テープを見、聞く。と、最近、すごく気になっていることがある。
音声担当者(音声マン)の技術レベルが、ここ数年、目に見えて落ちてきているんじゃないだろうか?

取材日のたびに、ひどい時にはカメラをまわすたびに、音のレベルがバラバラ。
インタビューの声もひどく聞き取りづらいことがある。特に条件が悪いようにも思えない時に。

担当が違えば、音のレベルなども変わるかもしれない(これも本当はおかしな話だが)。
しかし、同じ人間が、同じカメラマンと、同じディレクターとで取材に行き、行くたびに印象の違う音で収録してくるというのは、かなり問題だと思う。

編集する際にそのままではつなげないので、音のレベルを整えながら編集して行かなくてはならない。
そして、最終的に全体を通して再度整音。手間暇かかる。

ぼくは音に関してはシロウトだから、この程度の表現しかしないが、音の専門家は「ムチャクチャ」だと言った。

昨年、編集を局でやり、ナレーションの収録と曲入れ、整音を東京のスタジオでやった時のこと。
ディレクターはスタジオの担当者にイヤミたらたら、いびられまくった。あまりに音がひどかったからだ。
1時間番組、正味47分程度の音を全部、アタマからお尻まで、いじったという。

そして、こう言われたそうだ。

--音の入り口、シロウトにやらせない方がいいよ。

その話を聞いて、ぼくもムカッときた。が、反論は正直、しにくい。

今、ローカル局に社員の音声マンというのがどのくらいいるだろう。
取材の際、同行する音声マンは、カメラマン同様、外注がほとんど。
そして、その多くがアルバイトか、この仕事を始めたばかりという若人なのだ。

若い音声マンはカメラマンの助手のような仕事もしなくてはならない。
三脚を運び、カメラのバッテリーを入れ換え、必要とあらば照明も準備し、本番になるとヘッドホンをして取材対象者の頭の上にマイクを垂らす。
作業量が多くて、大変だ。

これで、音のプロになれるのだろうか? そんな疑問もわいてくる。

ぼくがこの世界に入った10数年前、音にはうるさいおじさんたちがいた。
その頃、すでに定年近い人も多く、祭りの山車の速さに着いていけず、置いてきぼりを食ってしまったと苦笑する音声マンもいた。

しかし、音へのこだわりは並大抵ではなかった。その人たちに任せておけば、音に関してはもう安心だった。
選曲も、効果音も、ピタリとしたものをつけてくれる。もはや、職人の域だった。

その人たちが定年となり、現場を去って行くままに、局に音声マンはいなくなっていった。
経費削減のためだろう、局は新たな音声マンを育成することをやめたのだ。

音は本当に大切だ。
テレビは映像の世界だが、音さえあれば、物語を作れる。
特に、人の言葉を扱う場合、音は最大の訴求効果を持つ。

取材テープには、音は入っているけれど映像はない部分も多い。
ぼくがその部分の音も聞くのは、取材対象者の心根がそこに落ちていることがあるからだ。
その音さえあれば、イメージ映像を使ってストーリーをふくらませることができる。

その逆は、だめ。映像があっても、無音だと現実感も説得力もなくなってしまう。
ローカル局には昔の資料映像がたくさん残っている。残ってはいるが、なかなかうまく使えないのは音がついていないから。全くの無音。
無声映画じゃないのだから、映像を見ても、なにがなんだかわからない。惜しいなぁと思うこと、たびたび。

デジタル化になると映像がバツグンに美しくなるという。
同時に、音も飛躍的によくなるはずだ。
そんな時代に、今のような、アルバイト主体の音声マン体勢で対応できるのだろうか?


今でも、選曲になると定年退職した昔の職人音声マンが局へやってくる。
そして、つける曲は、番組のグレードを確実に何段階かあげてくれる。
長年、現場で培った技術とセンスは、何ものにも代え難い。


忙しさにまぎれ、自分を磨けない若き音声マンたちよ、
自らを高めるために、もっと怒れ!


番組構成師の部屋


“ネコ助-Aoi’s Room”

♪今日のBGM=Grateful Dead 『 So Many Roads』

まだ朝8時。

日記を書く時間ではないけど、今日は午前中に出かけて帰りは深夜。
時間のあるうちに、書いておこう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「昔の女性関係をばらされたくなかったら、3000万円、用意しろ」

40歳そこそこの教師ふたりが他校の校長を脅して逮捕された。
アホとしか言いようがない。

ふたりは一歳違い。高校の先輩後輩で共に柔道をやり、国体にも出場。
勤務先の学校では、生徒の生活指導や進学指導を担当するなど、生徒たち、保護者たちにも人気・人望のある教師だったという。

「信じられません。生徒のことを考えてくれる先生です」

教え子たちの言葉は、戸惑いを隠せない。
それはそうだろう。授業をするだけではない。自分たちの進路を共に考えてくれる、生徒にとっては一番身近な先生なのだ。

「消費者金融に借金があり、金に困ってやった」

脅した理由。
アホとしか言いようがない、再び。

ふたりそろって金を借りたのか、一方が困り、他方が力を貸そうとしたのかはわからない。
しかし、やりよう、助けようがもっとたくさんあるだろう。
思考&行動が短絡きわまりない。

他人の弱味につけ込み、あぶく銭を巻き上げようとする。
卑劣きわまりない。

中学教師の友人を思う。教育現場は、今、大変だ。
荒れる、自らに閉じこもる、子どもたち。
そのメンテナンスは、彼ら教師に任されているのが実情だ。

さらに教師は、保護者の目、教育委員会の監視にさらされている。
八方ふさがりの中で、早朝から深夜まで、彼は駆け回る。

--うちの子が帰ってこないんですけど、

そろそろ就寝という頃、保護者から電話が入る。

--先生、捜してきてくださいよ。

「自分で捜しに行けよ、お前が親だろ! 正直、そう言いたい時もあるよ」

でも、車を駆って彼は出て行く。
それは、保護者のためじゃない。生徒がかわいいから、気がかりだから。それだけ。報酬があるわけでもない。

中学生。自らの処し方がわからない年ごろ。
なにもかもがおもしろくない。なにをどうしていいのか、わからない。
自らの体の変化をもてあます。

ぼくもその頃を経てきたから、わかる。
しかし、ぼくらと違うのは、今は多彩な誘惑があること。
バイク、車、麻薬、出会い系・・・。

いろんな可能性を考えながら、教師の友人は教え子を捜して夜の街を歩く。
暴力団員の溜まり場へ乗り込むこともたびたび。団員にすごまれ、脅されながら、子どもを連れ出す。

子どもはいっぱしの構成員のつもりだから、言うことなどきかない。
おとなしくさせようとビンタ一発!、とやると、彼の命運はそこで尽きる。
教育委員会へ、裁判所へ、「こんな暴力教師がいます」と訴えられる。

話を聞くたびに、大変だなぁとため息が出る。
先生は、学校にいようが自宅にいようが、どこにいようが先生だ。


校長を脅した教師ふたりも、生活指導担当として同じようなことをしていたはずなのに・・・。
子どもたち、保護者、そして教師たちの信頼を裏切った。
もう、取り返しはつかない。


脅迫電話をかける時、一回だけ“番号表示拒否”を忘れて、そこから足がついたとか。
やっぱり、アホとしか言いようがない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今から、他県の局で編集前の最終打ち合わせ。

まだ予定の時間よりかなり長い。
番組に入れたい要素やシーンを切ることがどこまでできるか。
その切りようによって、シェイプアップされ、見やすく分かりやすい番組なるか、あれこれごちゃごちゃ網羅されていて、結局なにがなんだか分からなくなるかが決まる。

さてさて、どこまで思い切れるかな?

番組構成師の部屋


“ネコ助-Aoi’s Room”

♪今日のBGM = Humble Pie 『 In Concert 』



やっぱり、やられた。
ネコ助おしっこ攻撃。

昨夜、寝床で雑誌をながめていると、ぼくの上でネコ助が、がじがじがじがじ。

--やばっ!

飛び起きたが、時すでに遅し。
フトンの上にかけていた厚手の毛布と脱ぎ捨てたフリースが、あわれ、被害に。
おとといの夜同様、毛布とフリースは洗濯機行き。

毎日、毛布やシーツがうち倒されていく。もうそろそろ在庫も底をついてきた。
ネコ助の“春”周期からいくと、あと5日間ほどは今の状態が続くはず。
ネコ助が平常に戻った時には、大もの洗濯物で部屋が埋まってしまいそう。

早く治ってくれっ(病気じゃないか)。


そんなわけで、今朝の仕事はネコ助にやられた毛布とフリースの洗濯から始まった。

毛布が厚いので、それだけで洗濯機がぎっしり満杯に。
イヤな予感がしたが、案の定、脱水できない。
必死に回ろうとするも、ぶつん、途中で停止。
重量が均等になるようにあれこれやってみるも、やっぱり停止。

結局、びちゃびちゃに濡れた状態で干すはめに。

どんより冬空の下、たっぷり水を吸い込んだ厚手の毛布。
乾くまでには3日はかかるに違いない。


8時前から力仕事に勤しんだので、体と頭からやる気が抜ける。
しかし、そうも言っておれん。結構、仕事が詰まってきた。
5月末までのスケジュールを立てる。

しかし・・・。
今、何本、仕事が走っているのか? 自分で把握できないのが情けない。

「お願いしますね」との言葉のままに動きがないのが2本。
プロデューサー&ディレクター同席の元、打ち合わせをし、「早急にリサーチして結果をお知らせします」で頓挫しているのが1本。

動きのない2本のうち1本は、その局の人間によると「やるらしい」とのこと。

ディレクターは会社員とはいえ、仕事は個人事業主のようなものなので、隣の席の人間が何をやっているかをよく知らない。
オンエアを見た同僚が「アイツはこんな番組をやってたのかぁ」と驚くことも珍しくない世界。

同じ釜のメシを食っている人間でさえそうなのだから、外部のぼくには、どうなっているのやら、さっぱりわからない。

ひとまず、その3本はナイものとしてタイムテーブル作り。
表にして初めて、制作進行がだぶっていることに気づく。

あら~、ものすごくタイトでキビシイでないの!

いつものこと。スケジュール管理がヘタでイヤになる。

でも、オンエア日はもちろん、編集やナレーションの収録といったスケジュールはぼくに合わせて立てられるわけではない。
スタッフや編集室のやりくりなど、局側の事情で強制的に決まるもの。
なおかつ、日時の変更もよくあるので、進行が完璧に重なることも珍しくない。

文句は言えんが、アタマがしんどい。


数年前の春先のこと。
その時期は毎年バタバタと忙しいが、その年は特別。
11本の番組が同時進行。
なにがなにやら、考える間もなく次から次に編集、ナレ録り、また編集・・・・・。
毎日毎日、青息吐息。

その年、ずっと忙しかったわけではない。
一年間の仕事の本数は、いつもの年と同じくらいだった。
オンエア日が2ヶ月も後へずれ込んだり、逆にひと月早まったりが相次いで、たまたま重なり、11本。

あのしんどい思いは、もう遠慮したい。

でも、人気作家などはあんな日々が続くのだろう。
売れっ子にはなれんなぁ、やっぱり。

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予定表作りに昼までかかる。

5月までにオンエアされる番組は、どうやら5本。
不確定要素が多い番組もあるけれど。

ひと月、1本・・・と、平均化できるとどんなにいいか。
2月中にアップし、納品という番組が3本だ。

取材テープを見て書き起こす作業が重なると、ちょっときつい。
インタビューはちゃんと聞きたいし、映像も見ておきたい。
単純に、時間がかかる。その時間は短縮することが難しい。

いざとなれば、映像は早廻しで見ても雰囲気はつかめる。
カメラマンに申しわけないと思いつつ・・・少し後ろめたい。

しかし、インタビューはそうもいかない。
聞いてみないと、面白いかどうか、使えるかどうか、わからない。
いつか盛り上がるだろうと思いつつ、本を読むのと同じ。
ラスト、フィニッシュ! で、なにも残らないと、がっくり、力が抜ける。

もちろん、面白い話や、心にしみるインタビューも数多い。
仕事を抜きにして、笑ったり、感心したり、感動したり。
取材をしたディレクターはじめスタッフに感謝したくなることもある。


家に居ながらにして興味深い話を聞ける。
これが、“役得”と言うものだろうか。


今日は、VHSテープが2本、届いた。

この中に、“役得”、あるかなぁ。



番組構成師の部屋


“ネコ助-Aoi’s Room”

♪今日のBGM = John Mayall And The Bluesbreakers 『 A Hard Road 』



ふわ・・・寝不足。

ネコ助、春ふたたび。
今回は、前回をはるかにしのぐ狂おしきパワー。

昨夜、最終電車で帰宅したぼくの顔を見るなり、枕元にちっちーとオシッコ。
夜中にシーツをお取り替え。

ネコ助にニオイをしっかりつけられたシーツを廊下へ放り出す。
ぼくが帰る前に、すでにオシッコをかけられていたパジャマのズボンも一緒。

自分のニオイで埋め尽くしたいのだろうか、それともお誘いなんだろうか。
どっちにしても、ターゲットにされているのはぼく。

着替え、歯を磨いている間にも、

--あぉぉんぐるるるぐにゃぁぁんぶにゅるるぐなぁぁぁぐぅぁぁんあぉ

形容しがたい鳴き声でぼくを呼ぶ。
前回の物狂おしき声にプラスして、今回はコブシも回っている。
愛らしさはとっくに通り越し、漂う迫力と凄み。

フトンに入ると、ぶごぶご鼻息荒くして、ぼくの顔を嗅ぎ回る。   コワイ。

なぜこんな風になったのか、ネコ助本人も分かるまい。

遺伝子にインプットされたプログラムが、季節の変動と共に、むくむく、動き始めた。
げに激しきは、子孫繁栄への希求なり。

夜半の体力消費の反動なのか、昼間はコタツの中で雌伏している。
その横で、飼い主は仕事をしながら船を漕ぐ。

--あぁ、眠い・・・・・。

前回から数えて、きっちり、10日周期。
来週半ばまで、夜中に枕カバーやシーツを取り替えなくてはならんのか。

彼氏を呼んできてやることはできんから、こちらもがまんしなくちゃね。

でも、今回の物狂おしけれが終わったら、病院へ行こうな、かわいそうだけど。

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午後はこっくりしながら、ネットで資料を収集。

某局の1時間番組は戦時中のお話なので、国立公文書館などの資料を探す。

先月、公文書館には行ったけど、館内で資料を検索するのもネット経由。
自宅とまるっきり同じ手順だった。

--これじゃぁ、わざわざ東京まで来ることもないやんか。

そう感じた。
その場まで足を運んだ、そのメリットが何もないというのもどうかと思う。

しかし、公開されている資料を自宅で探すことができるのは、やはり便利だ。
画像としてデータベース化されている資料は、その内容をも見、読むことができる。
自宅で調べておけば、どの資料を番組に使うといったことが前もって決められる。

う~ん、考えれば考えるほど便利である。

10年ほど前は、イヤでも出向かねばならなかった。
インターネットで自由に検索、などというシステムはなかったし。
出向けば出向いたで、慇懃無礼な公僕相手に自分を卑下することに疲れ果てる。

そんな思いをせずにすむのは、精神衛生上、非常によろしい。

ネットで資料を検索すると、お~、探しているのが出て来るではないか!
ちょっと感激しつつ、資料の中味へアクセス。
ここで、わが家のシステムの致命的な欠陥に気づく。

遅い、ダウンロードがあまりにも遅い!

見たい資料をクリック! ・・・・・・・5、6分は何の反応もない。

わが家はいまだにISDNなのだった。

戦時中の文書は画像として取り込まれているので、データ量はどうしても多くなる。
ひとつの資料に画像が30点もあるともうお手上げ。ただただ待つしかない。

あぁ、光ファイバー、せめてADSLにしておけば・・・。時、すでに遅し。
手持ちぶさた。それでなくてもネコ助攻撃で眠い。
キーボードに手を置いたまま、すーすー眠ることとあいなった。


そんな感じでのろのろと、しかし、結構使えそうな資料が集まった。
嬉しい。

これらを整理して、どの資料を接写するかを決めて、公文書館などに依頼をする。
あちらからOKが出て、そこでようやくカメラの出番だ。

回りくどくて面倒な作業。
だけど、資料できっちり、ウラをとっておかないと、アラを探されねじ込まれる。
そういうことが好きなヒト、結構いるのだ。

どこからどう突っ込まれても、きちんとした返答ができる。それが理想。

理想の高みを征したことは、いまだかつてないけれど。


番組構成師の部屋


“ネコ助-Aoi’s Room”

♪今日のBGM=Lou Reed 『Ecstasy』


よその県で打ち合わせ。

今年5月、オンエア予定の番組。打ち合わせは2時から6時まで。
ディレクター氏の狙いたい方向と、ぼくが面白いと思う方向がちょっと違い、あ~だこ~だとお話し合い。

ディレクター氏が押したい主人公、残念ながら番組前面に登場し続けるだけのインパクトに欠ける。
今はもう亡き人なので、本人の言葉はない。知る人もいない。
今のところ、証言は息子さんだけ。

息子さんの言葉は、どうしても肉親の情愛がこもるので、的確な証言とはなりにくい。

で、どうするか・・・・というところで、打ち合わせ終了。
次回までペンディング。しかし、次回と言っても、もうあまり時間がない。

昔の話で、証言者も少ない。
でも、やり方によっては新たな視点をそなえた、深みのある、そして面白い番組になるはず。
注意すべきは、資料&資料映像の羅列で教育番組のようにならないこと。そうなるおそれが多分にあるのがちょっと恐いところだ。

プロデューサー氏に「進み具合、いかがです?」と尋ねられる。
「う~ん・・」と、しばし沈黙。
バッチシおもしろくなります、と安請け合いはしない。
どうもアカンですわ、とも、もちろん言わない。

ちょっとだけ思わせぶり。
正直、取材がすんで編集するまで、はっきりどうだとは言えないのだ。
台本を先に作ってその通りのコトバを語ってもらうわけではないのだから。

台本を先に作るドキュメンタリーもあるけれど。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


打ち合わせを終わって、いつもの居酒屋へ。
この店にしかきたことがない。

実はこの店、かなりのお気に入り。お客さんがいつもいっぱい。
つまみもうまい。
ここで最終の特急まで、限られた時間に飲む。これが結構お気に入り。

プロダクションの社長(兼カメラマン兼プロデューサー兼ディレクター)が合流。これもいつもの通り。
しかし、社長、今日はどうも顔色がさえない。昼間の取材で数時間、テレビカメラをかかえて疲れたようだ。

元々は局のカメラマンだった社長、部下の手前もあり、ヘタな映像は撮れない。社長はつらい。

もっとつらいのは、経営だろう。
某局社長直々のきもいりで追加取材をして作った番組。どうも追加取材にかかった費用分、持ち出しになりそうな雲行き。ひで~話だ。

埋め合わせをしてもらったとしても、“儲け”にはほど遠い。
あとから支払われるであろう制作費をあてにして取材せざるを得ないというのはかなりきつい。

ぼくも同じようなことが多々ある。準備を進めていた仕事が突然消える。アタマにくる。
たたぼくの場合、動いているのはぼくだけ。かかった経費もぼくだけ。だから、金額は大きくない(個人的には大きいけど)。

しかし、プロダクションの場合は、ひとりで取材するわけではない。
人を動かすのでどうしても費用がかさむ。海外取材なぞが入れば、すぐ三桁の金額が飛んでいく。
それが回収できないのは・・・。

社員に給料を払う義務がある。自らも生活しなくちゃならない。
会社は維持して行かねばならぬ。

あぁ、社長はつらい。


ひとりでシコシコやる方が、やっぱりぼくにはむいている。


番組構成師の部屋

“ネコ助-Aoi’s Room”


♪今日のBGM=Bonnie Raitt 『 Road Tested 』



昨日、1月4日朝刊、社会面。

17歳の女子高生が列車にはねられたという、17行のベタ記事。

  「3日午前11時半ごろ・・・遮断機・警報機付きの踏切で、
   市内の女子高生(17)が普通列車(6両)にはねられ、死亡した。
   署では自殺とみている」

すぐ近くの踏切。よく乗る路線。
そこで、17歳の少女は命を絶った。

正月三日。暖かな日。
すべてが一新するはず。生まれたばかりの、年の初め。
春三月の陽光にも似た、穏やかな冬の陽射し。

その中で、少女は自ら旅立った。

--なぜ?

父親は、母親は、兄弟は肉親は、そう考えるだろう。
自らを責めるだろう。

しかし、・・・わかるまい。

友人たちは・・・少女の思いに、少し、近づけるかもしれない。

しかし、やはり、わかるまい。


世を去りたい。
そう、誰もが思ったことがあるだろう。

若き日。ぼくも“死”への希望を想った。
死は香り立つほど甘美ではなかったが、眼前にそり立つ崖を消し去る力をはらみ、ぼくを誘惑した。

他人にとってはどのような些細なことでも、囚われた人間にとっては脱出することの困難な絶望の深みだ。
そこから抜けるには、楽になるには、自由な自分を取り戻すには、どうすれば?

“死”は、解決への扉を開いてくれる。

だが、ぼくは、「なぜ死んだ?」と思われることが耐えられなかった。
理由を詮索されることが、現在、直面している苦痛よりもさらに苦痛だった。

この世に残した苦痛に後ろ髪を引かれたまま、黄泉の国へと向かうこと。
それは、決して“解決”にはならない。
悔いをただ残すだけ。


“死”を選ばないわけは、まだあった。
なぜ死んだのか、誰にでもわかってしまうという、その恐怖。
自ら命を終えた理由が見透かされてしまう恐怖。

--あいつはあれで死を選んだ。

そう思われるのは、許容しがたい。


結局、ぼくは、周囲の“目”を気にして“死”を受け入れることができなかった。
ひたすら凡人。だからこそ、今、ここにいる。


17歳の少女の胸は、どのような思いで埋まっていたのか。
たとえ遺書があっても、わかるまい。

少女も、自分の思いをどこまで抱きしめることができていたか。
自分自身の思いを、肌と同じぬくもりになるまで掻き抱き続けることができたなら、少女は踏切へ歩を進めることはなかっただろうに。

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  「3日午前11時半ごろ・・・遮断機・警報機付きの踏切で、
   市内の女子高生(17)が普通列車(6両)にはねられ、死亡した。
   署では自殺とみている」

少女の死についての報道は、これだけ。これが、すべて。

記事は、続く。

  「事故で上下線の特急と普通計7本が運休。
   18本に約1時間~10分の遅れが出て約6500人に影響した」

これが、記事のすべて。ベタ記事17行。これだけ。

ひとりの命が、消えた。自ら、終えた。
その重みを極力伏せるような、情報の羅列。

少女の命と引き替えに列車がどれだけ遅れたか、何人が迷惑をこうむったか・・。
ぼくら読者は、そんな情報が欲しいのだろうか?
そんな数字が必要なのだろうか?

晴れた冬の日、お昼近く。
列車が近づく踏切へと、ひとり、入っていった。
少女の胸の思いを少しでも知ることができたなら・・・。


少女への、肉親への配慮なのだろう、そこを掲載しないのは。
ニュースでも、報道される内容は新聞ベタ記事と変わらない。

しかし、ワイドショーは、プライバシーに容赦ない。

そんな情報も、ぼくは欲しくない。知りたくはない。
知りたいのは、生よりも死を選んだ少女が目的を達してしまうまでの心の動き。

理解はできなくても、知ることさえできたなら、胸の内でより深い哀悼の意を捧げることができるから。



-- May she rest in peace--




番組構成師の部屋



“ネコ助-Aoi’s Room”


♪今日のBGM=Damned 『Damned Damned Damned』

新年4日目は日曜日。

通常の日曜日、朝食を終えて呆然としている時になんとなく見ている番組が『サンデーモーニング』。

元日ハム監督の大沢親分とアジアの安打製造機・張本氏が登場する“ご意見番”のコーナーが好きなのだが、今日は呆然とする時間が遅くて見ることができなかった。

流れていたのは、番組内の特番。日本の自立についてのお話。
アメリカ追随の歴史をおさらいし、今、そしてこれからを探ろうという狙い。

その狙いはわかるのだが、アメリカと日本の関係をキタキツネの親子になぞらえたのは失敗だろう。日本を親から自立する子ギツネに見立てるは、かなりムリがあった。

コメンテーターも意見を求められるたび、口々に「日米関係をキタキツネの親子にたとえるのは違和感がある」だの「抵抗感を覚える」などとキビシイ反応。
コメンテーターはひとりひとり、誰もが一家言ある人たちばかりだからこんな反応は当然だろう。

たぶん、優しく、くだけた感じを出すために、キタキツネ親子の誕生、成長、学習、自立という関係の移り変わりに、日米関係の変遷を託したのだろう。
しかし、日本とアメリカという、国と国との関係とキタキツネの親と子の関係があまりにそぐわず、不自然この上ない。

生き物の愛情としての親子関係と、政治・経済を中核とした国同士の関係とをオーバーラップさせようとしても、ただ唐突に感じるだけで心に染みてこない。

ナレーションも異議あり。
親ギツネのあとを無批判・無疑問で追う子ギツネのごとく、日本の姿を表現している。これまたムリ。

日本の立場を意図的に“下”に置くことで、視聴者への訴求効果を狙ったのだろうが、ナレーションが丁寧に考慮されていないのでムカッと不快な思いを感じるだけ。

それが狙い目だったのかもしれないが。

特集担当ゲストとレギュラーコメンテーターとの議論も、かみ合わないこと、はなはだしい。
それには、やっぱり理由がある。

まず第一に、「自立とは何か」という定義がない。
物事を議論するときにはきちんとした“決め事”がないと堂堂巡りでなんのプラスも生み出せない。

“定義”というと小難しく感じるが、「どういう状態にあればこの議論では“自立”とする」旨の、簡単な決め事があればいいだけ。
それがないので、“自立”という言葉だけが浮遊している。

第二に、ペリーの来航からブッシュ現大統領の政策までを解説して行く間に、テーマが“日本のあり方”から“アメリカのあり方”に転換している。
そのため、コメンテーターのコメントがまるで活きない。ぶつ切りコメントになってしまっている。

“自立”と一口に言っても、政治面なのか、経済面なのか、軍事・安全保障の部分なのか、教育・文化のジャンルなのか、それともすべてを網羅した、国家の全存在としての“自立”なのか・・・・。

それが明確にされていず、ごちゃごちゃなので、見ていてもあたまの中身が整理できず、コメンテーターの言葉もてんでバラバラ。

結局、なんということもない特集になってしまっていた。
時間と労力、もったいないこと。

おかしかったのは、コメンテーターが特集の内容に批判的な発言(例えば「日米関係をキタキツネ親子になぞらえるのはおかしい」という発言)をした際の、司会者・関口さんの反応。

「そうですかねぇ」と生返事。「困ったなぁ」という心情がありあり。
コメンテーターからこうした反応が出るとは予想してなかったのではないだろうか。
何より、関口さんが特集の内容を十分理解してはいなかったように感じられた。

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とりとめのない、まとまりのない特集。
まぁ、正月らしいと言えば言える。

しかし、正月らしい、で見過ごせることができない部分が一箇所、あった。

日本が自立できるチャンスは2度あった、という前提で話は進んだ。
自立する、そのチャンスのひとつ、それが15年戦争、第二次世界大戦だとしている。
まぁ、仮定の設定、それはいい。

看過できないのは、

--第二次世界大戦に敗北したことで、日本は自立に失敗した。

というまとめ方をした点だ。

話の流れ方からしても、“あの戦争に勝利していたら日本は自立できていた”ということになる。

それでいいのだろうか?

あの戦争で勝利していたら、日本は本当に“自立”できていたのか?
できていたとすると、この特集で言うところの“自立”は、他国を抑圧することの上に成り立つことになってしまう。

それを“自立”と呼んでいいのだろうか?

司会者も、特集担当ゲストも、アナウンサーも、コメンテーターも、その点には触れなかった。
何事もなかったかのように、番組はそのまま進んでいった。

ぼくは、そのまま流すことはできない。
これでいいのか?

局側は、このまとめ方を、「TBSの考え方」として受け止められていいのだろうか。

最近、TBSはこうした点で丁寧さに欠ける。アラが目立つと言ってもいい。
先日は石原慎太郎東京都知事の発言をまったく逆の意味に“仕立て上げ”、番組内で堂々とオンエアした。

単純なチェックミスということになっているようだが、今日のようないい加減なまとめ方をしているようでは、番組ばかりかTBSという局そのものの姿勢をも信頼することができなくなる。

番組を面白くしよう、分かりやすくしようと心を砕くのは大切だ。
しかし、見かけの面白さ、耳ざわりの良さを追求することで、真に大切な部分をなおざりにしないで欲しい。

--一過性の、言いっぱなしの、なんら責任を取らないテレビ局。

視聴者の胸にそうした印象を残すような番組作りはやめて欲しい。

自らの存在意義をおとしめるだけなのだから。


♪今日のBGM=Chess Blues Masters Vol.4 『Harmonica Classics』

正月三が日がもうすぐ終わる。

元旦は17℃、昨日はしとしと雨降り、今日はまたぽかぽか。

南向きの日だまりは、陽射しさんさん、居眠りを誘う。
夜になっても、ストーブいらず。年が改まってから、着火してない。

ぜんぜん正月らしくない。気分が出ない。
ウソでもいいから、ちらほら雪が舞わないかと思う。

正月らしくないと言えば、今の仕事を始めてからはずっと正月らしくない。
関係ある誰かが仕事をしているし、ぼくも仕事をしている。
この三日間を振り返ってみても・・・、

1月1日、元旦。
A局ディレクターからメールにのせて企画書が届く。3月、オンエア予定。
大晦日も働いていたのね。子どもも一緒に格闘技でも見たかったろうに。
ピシッと切れるディレクターも、いい家庭人ではないな、きっと。


1月2日。
プロデューサーへ台本初稿をFAXで送る。
「今年いっぱいね~」と留守電で言われたけど、できるはず、ないやん!
二日ぐらいの遅れは大目に見てもらわんと、やってられんで。

即、電話あり。
「4ページが届いてないよぉ」
はい、えろうすんません。

1時間後、FAXあり。
シーン毎にちょこちょことご意見あれど、基本的にこれでスタート。
ちょっとだけ、ほっ。

さてさて、撮影その他のスケジュールはどうなるか。時間にまったく無頓着なおぢさんなので、注意しておかないと・・・。
突然、電話してきて、「今日、撮影なんだけど、どうしてこないの?」なんて平気でおっしゃるからなぁ。
今まで出会った人の中で、最も時間感覚のない方である。


1月3日。
B局ディレクターより、メールでスケジュール表が届く。
元旦、2日も会社で働いてたのね。お母さん、娘さんの信頼なくすぞぉ。
子どもは働く親の背中を見て育つとも言うけどね。

届いたスケジュール表は、ごくごくおおざっぱ。
当然ですわな。取材の進み具合でどうなるかわからんもん。
しかし、この予定で行くと、2月末前には納品しないといかんでないの?
あっと言う間にその日がきまっせ。

あら? にゃにぃっ、オフでLAだぁ?! アメリカなんぞで遊んでていいのかっ!!

ま、いっか。働き過ぎですもんね、どう考えても。
のんびり、リフレッシュしてきてください。
んで、お帰りになったら、アリ地獄のような日々が待ってますぜ。


てな感じで、大晦日だろうが、元旦だろうが、ゴールデンウィークだろうが、いつも、誰かが、働いている。
切れ目なく番組は流れているし、ニュースは時を選ばない。
けじめのつかない職種ではある。

気分転換が難しい。

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年賀状を書く。

自宅で作った年賀状に、ひと言だけ、言葉を入れる。
丸々印刷というのは、どうも出す気になれない。
と言っても「今年もよろしく」とか「お元気ですか」とか、入れなくてもいいような言葉ばかりなのだけど。

届いた年賀状を改めて読み返す。
友人・知人は、会わずともなつかしい。元気かなぁとしみじみ思う。

だがしかし。
仕事で1、2度会った程度の人から、毎年毎年、延々と届く年賀状。
すごく、不可思議。

出していただきながら言うのも失礼なのだが、この方たち、本当に「今年もよろしく」と思われているのだろうか?
顔も覚えていない方、いるのだけれど。街ですれ違っても、分からない。
きっと相手も、ぼくの顔なぞ覚えていないに違いないのだが。

妙だなぁ、と思いつつ、ぼくも「お変わりありませんか」と年賀状。
虚礼の最たるもの。はっきり言って、ハガキのムダ。
しかし、届いたからには返さねば。

この思いが虚礼の始まりかな。

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三が日で読むはずだった資料、結局、一字も読まず。

やっぱり仕事というのは流れがあるもので、奔流のように、怒濤のように、進むに任せないとどうにもならない時がある。

確かに、そんな時がある。
だけれど、三が日に読まなかったのは、単なる怠慢。
気分が乗らないだけの怠け心が顔を出しただけ。

読まなければ始まらないから、いつかは読むのだけれど。

ファイル4冊、机に積んでみる。

--あぁ、読む前からしんどいわぁ。

気力が萎える。

読み始めると、結構面白いので、とんとん進むのはわかっているのだが。
今日のところは、遠慮したい気分。
こんな時、ムリヤリ読んでも、アタマには何にも残らない。


あぁだこぉだ言って思って、現状回避、現実逃避。

あしたがあるさね。



番組構成師の部屋



“ネコ助-Aoi’s Room”


箱根駅伝、80回目。

東京から箱根・芦ノ湖まで走る。その距離、100キロ以上。
箱根の上り坂は、車で走るのもうっとうしいくらいに急な坂。
そこをえっちら、駆け登る。

--いったい、誰が考えたんだ、こんなアホなこと?

そう思えるくらい奇妙・奇抜な大会。
だけど、やっぱり見入ってしまう。

特に、今は正月。
他の番組は手を変え品を変え、でも中身も出演者もかわりばえしないものばかり。
そんな中、ひたすら走る姿を映し出す番組の小気味いいこと!

ひとり、20キロ以上を走り、5人がたすきをつなぐ。
そのレースには、視聴者にこびるような演出もない。
淡々とした中に、思わぬドラマが潜んでいる。だから、目が離せない。

早大の櫛部選手が脱水状態となり、ふらふら。
最下位に落ちながら中継地点までたどり着いたのは、もう10年以上前になるだろうか。

山梨学院大の中村選手は、確か数年間、わき道それて入学した苦労人。
日本マラソン界の新星と注目される中、出場した箱根。
足の痛め、何度も立ち止まりながらも、監督の説得を振り切るようにして駆け、歩き続けた。

ミラーサングラスをかけた異端児ランナー、法政大学の徳本選手。アクと鼻っ柱の強さが魅力だった。
花の2区を走り始めてまもなく、足を引きずり始めた徳本選手は、監督に抱きとめられるまで蛇行を繰り返した。

たすきは、途切れた・・・。無念さが心を打つ。


第80回大会の今回。往路は実力校・駒大が制した。
途中棄権もなく、繰上げスタートもなく、全チームがたすきをつないだ。

驚いたのは、オープン参加の選抜チームで第5区を走った鐘ヶ江選手。筑波大学の4年生。今回、唯一の国立大学所属の選手だ。

その鐘ヶ江選手がトライした箱根の山のぼり。
すっすっと、あれよあれよとのぼっていく。
今回も同区を走り、区間記録を持つ東海大の中井選手よりも早いペースだ。

結局、鐘ヶ江選手は中井選手を上回り、区間賞を獲得した。

やはり、シナリオのないドラマ。 面白い。

駅伝やマラソンは、いい。
アナウンサーの不要・不快な絶叫もない。

静かな正月をおくるにはぴったりだ。


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箱根駅伝の流れのまま、テレビでは高校サッカー選手権。
こちらも82回目の伝統を誇る大会だ。

--筑陽学園(福岡)vs 桐蔭学園(神奈川)

見るともなく見ていたら、あらら、筑陽学園、4点連取!
想像もしないこと。
筑陽ベンチは、信じられない出来事に戸惑いの笑顔。
桐蔭のベンチも、あまりの信じられなさにただ呆然・・・。

桐蔭の方がネームバリューもあれば実力もある(だろう)。
昨年はベスト4まで勝ち残った(はず)。

そのチームが前半で4点を奪われる。

こちらも、シナリオのないドラマ。
後半、逆転劇があるかもしれない。


しかし、アナウンサーの「ゴォォォォォォォォーーーーーール」絶叫。
なんとかならんかなぁ。

見たくなくなった。チャンネル、かえよ。

番組構成師の部屋

“ネコ助-Aoi’s Room”


♪今日のBGM=Neil Young 『 Are You Passionate?』


2004年元旦。
ぽかぽか、あったか。17度まで気温があがる。
南向きの部屋は暖房いらず。日だまりに寝ころぶと1月1日とは思えないほど。
数年前までは、あぁ、あったかくていい気持ち、ですんでいたのだけれど、
今は、あぁ、あったかい、今ごろ南極では氷が溶けているに違いない・・・などと連想してはそこはかとなく不安になってしまう。

なにをしていても、どこにいても、落ち着けない、イヤな時代。
元旦から、ニュースはテロの様子を伝える。


しかし、テレビは特番ばかり。
各キー局、総力をあげて制作しているハズなのに、どうして特番、特に正月の特番はおもしろくないのだろう?
ただ、ずるずると長いだけ。芸のない、歌も歌えない、ただ若くて愛らしいだけの“芸能人”たちがちゃらちゃらときれいな着物を着てギャハハと笑う。
何千万という制作費をかけながら、そんな番組だらけになるのはなぜだろう?

視聴者が見るであろう番組しか作っていないのだから、こういう作りが視聴者の目を集めるのは確かなことに違いない。
テレビ番組は視聴者の目を意識せざるを得ない。視聴率の是非はともかく、視聴者を集めることで制作費から局員の給料まで、すべてをまかなっているのだから。

朝から続く特番の嵐。
つまみ食い的に見ていると、視聴者のレベルをこの程度と思っているんだなぁ、と腹が立ってくるし、情けなくもなってくる。

デジタル化しようが、この程度の番組に「参加できますよぉ」なんて言われても喜べるハズもない。

視聴者は、もっとガンガン怒るべき。
メディアを育てるのは、それを利用する人間なのだから。

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大晦日。3大格闘技。見た。
あの、引っ張りに引っ張る番組作りはなんなのだろう。

ナマ中継というのは言い訳にならない。
女子アナ&女子タレのへたくそなしゃべり。間延びした編集と映像インサート。視聴者を小馬鹿にしているとしか思えない。

フジテレビ、『男祭り』。
第一試合が始まるまで1時間近くかかったんじゃない?
いつ終了するか不確定の試合をナマ中継するのだから、時間のズレは避けられない。時間的な余裕は必要だろう。それにしても5時間ナマ放送するほどに中味が充実していたとは思えない。
放送時間は、2時間で十分だった。

TBS、『曙 vs ボブ・サップ』。
これも引っ張りすぎ。ふたりがリングに登場するまで、ぼくは紅白など、他の番組をあれこれザッピング。
今は、リモコンで次々とチャンネルをかえつつ見る“ザッピング”が主流だから、1分間毎に出るとは言え、視聴率の意味合いも変わってきている。

ザッピングの間は、ひとつの局に留まる時間は短ければ数秒、長くても10数秒。その間の視聴率はどうカウントしているんだろう?

CMになればチャンネルをかえる。CMの“視聴率”、数字的には出るだろうけど、それがどんな意味を持つのか。チャンネルを手で回していた時代と今とでは、まったく異なるに違いない。

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ここのところ、HDレコーダーが大活躍。

映画もHDレコーダーに録画し、まずCMをカットしてから通して見る。
すっきり見れるし、ストーリーに入り込めるからいい。
おっ!と思ったところで、ブツンと切られCMが登場すると、テレビにミカンでも投げつけたくなる。

この間、『グリーンマイル』という映画を見ていた。
死刑囚に電流を流すシーン。大きなスイッチががちゃこんと入れられた。
電気が流れる様子を示すランプがパパパパッと点滅する。
あぁっ、死ぬぅっ! と画面を凝視したら、かっくん、CMが始まった。

あったま、きた!
今までたくさんの映画を見てきたけど、こんなめちゃくちゃな編集は初めてだ。
登場したCM、スポンサーの名前は書かないが、ぼくは死ぬまでその会社の製品は買わない

こんな映画に出稿するのは逆効果でっせ、スポンサーさん。
大金を使って消費者の反感を買っているようなもの。
視聴率には、視聴者としての怒りと消費者としての反応は出ませんぜ。

しかし、映画をオンエアする際、どこまでズタズタにしていいのか、権利者のOKはどの程度までとっているのだろうか?
だいたい、CMのことなど想定していない映画に、CMを挿入しようと考えること自体、おかしなこと。映画に対する冒涜なのだが。

暗転かと思ったら、そのままCMに入っていたり、まったくサギまがいの手法でぶった切り、強引にCMを見せる。
ひどいものになると、ストーリーが追えないほどに編集し、カットしてある。

かなり前から、テレビ東京系列で『男はつらいよ』の全作品を放映している。
ぼくは寅さんを全作3回以上ずつ見ているので、次にどんなシーンが登場するかが前もってわかる。だから、あるべきシーンがカットされているとメチャクチャ違和感があるし、腹も立つ。
山田洋次さんは、この編集にOKを出しているのだろうか?

監督には著作権がないのかな? 版権を持つ会社が「ぶつ切りにしていいですよ」と言えば、監督も出演者も何も言えないのだろうか?

めった切りにされた映画を見るたびに、テレビの傲慢さを思う。
流してやるからいいだろう的な傲慢さ。

それは、映画だけではない、日々のニュース取材の中にもある。
それがテレビの信頼をおとしめているのに・・。


あぁ、切ない。


番組構成師の部屋

“ネコ助-Aoi’s Room”


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