番組構成師 [ izumatsu ] の部屋

今週はじめに背負い込んだカゼ。
治りかけてきた昨日、打ち合わせがあったので電車に乗って都会へ出かけたら、
ちょっとぶり返し気味。
でも、熱も下がったし、今日は、敷きっぱなしだったフトンもあげた。
板張りの部屋で机に向かうのはちょっと冷えるので、コタツ猫を決め込む。

しかししかし、気が滅入るニュースばかり。
イラクで拘束された3人の無事を願わずにはいられない。

ワイドショーでは、政府の渡航自粛勧告が出ているのに民間人が
何をのこのこ行っとるのか!と言わんばかりのコメントを吐く評論家。
おっしゃることは、理解はできる。
しかし、惨劇の事実を知りたい、何かをしたいという心の動きを
止められるのか。
一方に偏りがちな報道の裏を見たい、伝えたいという熱意を
さえぎることができるのか。

そうした意識を持ち、行動力のある人たちがいなければ、
ぼくらはコタツ猫のまま、世間の真実を何も知らずにのほほんと
時を過ごしてしまうだろう。

治安というものがないと言えるほどの状態の中へ飛び込んでいく軽率に、
一片の非はあるかもしれない。
そこでUターンする勇気を持つべきだったと言うこともできる。
しかし、拘束されている3人は、コタツ猫と化しているぼくの
身代わりであることも事実だ。

滅入る。

モスクへの攻撃。それが最後の歯止めをはずした。
理性の堤防は決壊した。憎悪が奔流のように人々を飲み込んでいく。
その流れから、ぼくも逃れることはできない。

ぼくらの総意として、自衛隊は派遣された。
ぼくらの総代表の小泉さんは、とっくの昔に「自衛隊は軍隊」だと明言している。

首相が軍隊だと認識している組織。
その組織が迷彩色の制服に身を包み、銃器を手にしつつ、
「人道支援にやってきました」と言う矛盾。

その矛盾を許しているのも、ぼくらだ。

滅入る。


さて・・・「さて、と・・」

お祈り「祈りの鐘・・」


今、この時点までで、ファルージャでは240人以上のイラク人が死亡した。
アメリカがモスクを攻撃した街。衛星テレビ局アルジャジーラの映像は、
地上の建物へ向けてミサイルを発射するアメリカ軍のヘリコプターを映し出す。
黒煙を背景に、ファルージャの市民が叫ぶ。

--この街は、モスクの多い尊い街。美しく、平和な街だった。
--それを破壊するのが、アメリカの言う民主主義なのか?!

わからない。
アメリカは、なぜ、モスクの攻撃に踏み切ったのか?

自称無心論者のぼくらの想像が及ばないほどに、宗教・信仰は
イラクの人たちの生活に、社会に、まるで毛細血管の先の先まで
血液が流れているように、浸透しているに違いない。
まず、信仰ありき。それが、宗教を信ずる人の心根。
それは、キリスト教でも同じだろうに。

アメリカ軍は、攻撃したのはテロリストが隠れている(とアメリカ軍が探知した)
モスクの中庭と壁とで、ドームなどモスクそのものに損傷はないと発表した。

あほか!

この、イスラム教徒が聞けば激怒するような、間の抜けた発表を
あえてせざるを得ない状況に自らを追い込んだアメリカ軍。
ドームという建造物の破壊が問題ではないのはわかっているのだ。
しかし、自らの攻撃を正当化するには、こう言うしかない。

--攻撃対象は、モスクに立てこもるテロリストなのだ。モスクではない。

ミサイルが打ち込まれる街で、心のよりどころとしているモスクの
内と外で銃撃戦が繰り広げられている。
そのただ中にいるファルージャの市民に、アメリカ軍のこの説明、
「狙いはモスクじゃない」は、いったいどう聞こえるだろう?

キリスト教会とその周辺に異教徒がミサイルを打ち込んだ時、
キリスト教徒はどう感じるのか?
その目的が正当であれば、心のよりどころを銃器の対象とされてもかまわない。
そう、心の底から言えるのか?

この単純な疑問への納得いく答えを聞かない限り、いかな無心論者のぼくでも、
モスクにミサイルを打ち込むことを“しかたない”とすることはできない。


小泉さんは「自衛隊は撤退しない」と明言した。
撤退できまい。派遣した前後の経緯を振り返れば。
しかし、やはりぼくは思う。撤退すべきだと。

国があるからぼくらがいる、のでは決してない。
ぼくら個人が集まって、より生活がしやすいように国という組織を
便宜上、作っているにすぎない。
ぼくら個人が“主”。国は“従”なのだ。

--国際的に許されない。

--世界の物笑いとなる。

--テロリストに屈した前例を作ってしまう。

そんなことは、どうでもいい。
世界的に恥をさらし、「おく病者の日本人だ」と後ろ指をさされても、
ひとりの命を救うためには大きく軌道修正することも辞さない。

そんな国にぼくは住みたい。

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