番組構成師 [ izumatsu ] の部屋


♪BGM= Captain Beyond 『 Captain Beyond 』






サッカーのアジアカップは日本の二連覇で終わったが、その後の「中国人サポーター」に関する報道内容はあまりにひどい。

例えば、きのうの日曜日。
午後7時のNHKニュースは、トップに中国人サポーターの問題をもってきて、
10分間以上にわたり中国当局の警備の不徹底や中国人サポーターの反日感情の異様さを強調していた。

その試合は民放とNHKとで放映されていて、ぼくもテレビで観戦したけれど、
競技場内では大した混乱など起きてないように見えた。あくまで画面上ではあるが。

日本に対するブーイングや自国のチームに対する応援なども、
例えば韓国人サポーターのあのすさまじいまでの応援振りとは比べものにならぬほどのおとなしいものだった。

集音マイクは競技場の臨場感を出すために、歓声がより大きく拾えるように設置されているはずだが、
そこから聞こえるスタンドの声も予想外に小さかった。

それが、NHKのニュースによると、中国人サポーターは“大暴走”し、“大暴動”へと発展した、となる。
テレビカメラは、ごく一部に過ぎない「日の丸を焼く」中国人サポーターの姿などを執拗に映し出し、
あたかもそれが中国の人々の総意であるかのような見せ方をする。
あまりに意図的すぎると言わざるを得ない。

特に恣意的だったのは、中国人サポーターが“なぜ”日本にこうした強い反発を示すのかというその理由について、
日中間の歴史的な問題に一切触れなかったこと。

問題の原因を中国国内の貧富の格差に求め、中国の公安当局がより強い警備体制が取れなかったのは、
警備を厳しくすると貧富の格差に不満を持つ人々が政府への反発を強くするためだとしていた。

つまり、日本には一片の非もない。
原因はすべて中国の国内問題にあり、そのために日本(と日本人サポーター)が被害にあったという論調なのだ。

それはおかしくはないか?
暴走した一部中国人サポーターの行動は、とがめられるべきものだ。
しかし、中国の人々の心に日本への消しがたい反発心があるのは事実であり、
その源となっているのは日本の中国侵略であることは間違いない。
これは右よりの人たちが言う「自虐的回顧」ではなく、「歴史的な事実」だ。

中国人サポーターの心によどむ反日への衝動は、その事実をぼくら加害者である日本人が知らない、知ろうとしないことにより、
改めて呼び起こされていると言えるのじゃないだろうか。

例えば、今回の大会で日本チームが苦戦した重慶。
中国人サポーターのあまりのブーイングに「なぜだ?」という論調はNHKのニュースにも、民放のニュースにもあった。
しかし、重慶はかつて日本海軍の無差別爆撃により灰燼となった街であるという事実にきちんと触れたニュースは、
ぼくが接した限り、ひとつもなかった。

「重慶爆撃」は、アメリカ軍による「東京空襲」や、スペイン内戦時代にフランコによって行われた「ゲルニカ爆撃」と並ぶほどの激しさだった。
足かけ三年間続いたその爆撃の目的は、威嚇ではなかった。
直接そこに住む住民を空襲して殺害し、それによって中国国民の戦意を喪失させることだったという。

脅しではなく、住民を殺し尽くすことが目的の爆撃。
日本海軍は戦闘機にラジオのアナウンサーを乗せて爆撃の様子を取材させた。
局に戻ったアナウンサーは、あたかも今まさに重慶の上空にいて、街が火の海に包まれているかの如く再現放送をした。

重慶はそんな街なのだ、だから住民には今でも激しい反日の思いがあるのだ。
うした“事実”をテレビ局はきちんと視聴者に知らせなくてはならない。
背後にあるそうした事実を知らせた上で、「『君が代』斉唱時のブーイングはひどい」といった感想なりを口にすべきだ。

こうした背景を知ることなしに、競技場における中国人サポーターの反日行為ばかりを見れば、
「民度が低い」と思ってしまう視聴者が出てきかねない。
まぁ、試合の中継内容自体が視聴者にそう思ってもらうことをねらった中継であり、
その後のニュースでの取り上げ方もそれに沿ったものだとも言えるが。

ぼくはサッカーを見るのが大好きだ。
だが、今回のアジアカップの試合、そしてそれに伴う報道内容を見て、
サッカーはナショナリズムの形成にはもってこいのスポーツだと改めて痛感した。

誰が命令せずともサポーターは“自国の”旗を振り、“自国の”勝利に熱狂する。
帰国してきた日本チームとそれを迎えるサポーターたちの姿、そして、インタビューに答える選手たち、サポーター。
その映像の使い方を見て、あぁ、ナショナリズムはこんな風にして、知らず知らずのうちに作られていくんだなぁという思いがした。

「中国人サポーターはレベルが低い」と無邪気に、勝ち誇ったように語る日本人サポーターたち。
過去を知ろうとしないままそういう反応をする限り、日中間の溝はいつまでたっても埋まらないだろう。


それにしても・・・・・。
中国で行われる中国と日本の決勝戦を見に行くことには危険が伴うことは事前にわかっていたこと。
外務省は注意を喚起する達しを出したが、「自己責任論」は聞かれなかった。
自分が行こうとする先で日本との間になにがあったかという過去の歴史を知ろうとすることもなく、
ただ騒ぐだけのために危険地帯へ出かけた日本人サポーターの方が「自己責任論」にぴったりなようにぼくには思えるのだが。






 ときどき、発声練習。

「あ~あぁぁぁぁぁ~」







♪BGM= Malo 『 Vamanos A Bailar Techno Merengue Rocking Espanol 』


きょうは長崎に原爆が落とされた日。
例年の如く、追悼式があり、テレビはそれを中継する。

近年は、原爆の記憶の風化が言われる。
同時に話題にのぼりだしたのは、「若い人が被爆者の辛い体験をわからないのはなぜなのか?」ということ。

「なぜ、わからない? わかってくれない?」

辛い体験をした人の、その思いは当然だ。

しかし、この疑問、問いは、間違っているんじゃないだろうか?
「間違い」と言うのは、言い過ぎだな。
ちょっと「勘違い」があるんじゃないだろうか。

ただでさえ想像力が不足しているといわれている若い世代。
想像力のない人たちに、「わかる」ことはできない。
だが、想像力があっても、「わかる」とは言い切れない。

「あんた、被爆者の辛さがわかるのか?」

そう言われて、「はい、わかります」と言い切れる人はそういまい。
なぜそう言い切れるのか、逆に奇妙な感じがする。

大切なのは「わかる」ことじゃない。「わかろうとする」姿勢だと思う。

想像力が乏しくても「わかろうとする」姿勢を持つことはできる。
その姿勢を保っていけば、他人の辛さに近づくことはできる。

わからなくてもいいのだ。永遠に「わかる」ことは、あり得ない。
他人の辛さは、疑似体験することさえできないのだから。

若い人たちに望むのは、「わかる」ことじゃなく、「わかろうとする」心のベクトルだ。
それは、事実を知ることからしか始まらない。


--でも、最近の子どもたちは、わかろうとさえせんとやぜ。

そう、中学の教師をやっている友人が言った。そちらへ興味が向かないのだ。

--どうすりゃ、いいん?

う~ん、困った・・・・。難しいなぁ、やっぱり。


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「命は大切」

大抵の子どもたちは、尋ねればこう言うだろう。
でもそれは、知識として知っているにとどまり、実感として体験したことはない。

「命は大切、大切、大切、大切・・・・・」

いくらそう知ってはいても、実感がなければ役に立たない呪文みたいなもん。
実その大切なものを失うこというのはどういうことかまで思いは及ばない。

--どげんすりゃええ?

--命を身近に感じるようにすればええやん。

--そりゃ、そや。んで、どげんして?

う~ん・・・・。
昔はお年寄りと暮らしていたから、老いと死を実感することが出来た。
そう指摘する人は多い。
でも、これってホントだろうか? 遠く過ぎ去った時間を慈しんでいるだけじゃないのかな?

もしホントであっても、現在の家庭を核家族から大家族に先祖がえりさせるのは難しい。
それでも、なにかで死を実感させる必要はある。

--その“なにか”は、なんや?

・・・・・・・・難しかぁ。



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