番組構成師 [ izumatsu ] の部屋

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*ロケ5日目 10月15日(金)

ロケも5日目。
到着した日に2万円分を地元の通貨に換金したのだが、撮影しては移動の繰り返し。使う機会がないので、ほとんど減らない。なんとなくつまらない。



ニューカレドニアの通貨単位は「フレンチ・パシフィック・フラン(CFP)」。全体的に日本の通貨よりも大きめ。
上の10,000CFPは、縦94ミリ×横174ミリと、日本の1万円札よりかなり大きく、財布からかなりはみ出してしまう。しかし、どの紙幣もカラフルできれいだ。



10,000CFPの透かし。



10,000CFPは日本円にして8,500円くらい。だが、実生活の中では1万円くらいの使い勝手だとコーディネイターのY氏は言う。ニューカレドニアの物価は、決して安くはない。昼食も1,000円前後かかる。

しかし、その量がまるで違う。着いた初日、ベトナム系のお店で頼んだ焼きソバは、大きな楕円形の皿に山盛り。必死の思いで完食したが、サラダだけでも十二分におなかがいっぱいになる量だ。



イカのサラダ。これだけで満腹!





朝が早いニューカレドニア。学校は7時に、普通のオフィスは8時半頃に始まる。そして、昼休みが長い。11時半くらいから2時間ほど。この休みに、昼寝をする人もいるとか。シエスタ習慣があるらしい。その間、通りはほとんど無人と化す。

--何ごともゆっくり、ゆっくりですよ。最初はリズムが全然合いませんでしたね。イライラしっぱなし。

と、コーディネイターのY氏は笑う。



昼のオフィス街は車だけ。閑散としている。




商店街も車だけ。人はいずこ?



駐車している車の中に、見覚えのある車種が。トヨタの「Vitz/ヴィッツ」、こちらでの販売名は「Yaris/ヤリス」。




走っている車で日本車はこの「ヴィッツ」くらいだろうか。ロケの最中に4、50台は見かけた。他に、日産マーチを1台。日本の乗用車は、これくらい。人口20万程度の小さな島。日本の自動車メーカーも車を売り込むだけのメリットがないのだろう。




さて、朝8時。ヌメア市の公設市場で本日の撮影開始。

野菜や魚などの生鮮食品から、雑貨、おみやげまでなんでもありの市場では、アマチュア・タヒチアンバンドが陽気な歌を聞かせていた。ニューカレドニアで、なぜタヒチアン??



素人のおじさんたち。ウマイ!






明治25年から大正8年まで、ニューカレドニアのニッケル鉱山で働いた5500人を越える日本人たち。市場でロケのあとは、その子孫の方々へのインタビューだ。

まず訪ねたのは日系二世のN氏宅。



こじんまりとした、感じのいい家。


レポーターの泉谷さんを先頭に、前庭を通り過ぎてドアをノック。
N氏の奥さんが出てきて「ボンジュール!」。おや、いい感じ、と思っていたら、ドアが閉められ、ぼく一人、前庭に取り残された。泉谷さんのあとから、カメラマンのH君、モニターをかかえた音声マン兼任のディレクターT氏、そして、コーディネイターのY氏が通訳のため続いた。

あまりぞろぞろとついて行くとカメラに映る可能性があるので少し距離を置いていたら、奥さんがぼくの存在に気がつかなかったのだ。

家に入ってから、そのままインタビューになだれ込んでいるはずだ。ここでドアを開けて入っていくと話の腰を折ることになる。
仕方ない、庭でおとなしくしておこう。

庭で飼われていたイヌころと戯れつつ、話が終わるのを待つ。



相手をしてくれたイヌ君。






N氏の父親は、熊本出身の元鉱夫。第二次世界大戦のとき、敵性外国人として強制収容され、そのまま日本へ送り返されてしまった。こうした境遇の日系二世の人は数多い。

次に訪ねたのも、父親がニッケル鉱山で働くためにニューカレドニアへやってきたという、二世の女性・Jさん。戦争勃発時、父親はやはり強制収容された。

Jさんの夫はフランス人。だが、7歳のころから投網を打っているという大ベテラン。最初に教えてもらったのは、やはり日本人からだったと言う。

リタイアした今は、週に一度、別荘へ行き、投網を打つのが楽しみなのだとか。それは幸いと投網で魚を捕る様子を撮影させてもらうことに。

ハイウェイを飛ばし、丘陵を越えて1時間半。到着したJ氏夫妻の別荘は、その土地がやたらと広い。どのくらいあるのか訪ねると、その広さ、なんと1、5ヘクタール! と、“ビックリ・マーク”をつけても、どのくらいなのか、具体的には想像不能。とにかく、吹く風が全部自分のものと思えるほどに広いのだ。



丘に建つJ夫妻の別荘。シンプル。




別荘からの景観。きれい・・・。




別荘の陰にはモーターボートが。



Jさんの夫は、この別荘に「My 投網」を16枚も保管していた。趣味の域を越えている。本当に投網が好きなのだ。

マイ・投網を肩に、ゆるやかな丘陵をくだり、海へ。海辺に到着したJさんの夫、魚のうろこが日の光にきらめくのを見逃さないために偏光サングラスをかける。そして、投網を手にすると、Jさんの夫、見る見る真剣な顔つきに。

魚がいると見るや、シュパッと投網を投げる。70歳をこえたとは思えない身のこなしだ。



Jさんの夫、投網に没頭。



投網をする様子の撮影を終えたあとも、Jさんの夫は魚を捕るべく投網を打ち続ける。ほんとに好きなんだなぁと感心。つい先日は、荒れた海を逃れて海辺に近づいてきた小エビを20キロも捕ったのだとか。

ロケを終え、別荘に戻ると、奥さんのJさんが冷凍していたその小エビを大きなボウルにたっぷり、ゆでてくれていた。あぁ、エビそのものの味がする。酒の肴に最高だ。しかし、食べれど食べれど、なかなか減らない。あの~、ちょっと多すぎません?

--い~え。これ、全部食べないと、帰してあげませんよ。

と、笑うJさん。

いやいや、エビだけで腹一杯になったのは初めの体験だ。







この日で、泉谷さんが登場する場面は撮影終了。Jさんの別荘でエビをたらふくいただいたあと、ベトナム料理『ミンチョウ』で軽く打ち上げ。

--きょうはエビ抜きの生春巻きにすっかな。もう、エビはいいや。

などと言いつつ、みんなで「カンパーイ!」。


どんな番組にしようかと、ディレクターのT氏と話をしていて、ふと浮かんだ「レポーター・泉谷しげる」案。依頼を受けていただけるか不安だったが、受けていただいて、さらに不安に、ドキドキに。でも、今は、ご一緒できてほんとによかったと思っている。

実は泉谷さん、原田知世さんが主演した20年前の映画 『天国にいちばん近い島』に出演している。

そして、最近のドラマでは漁師役を好演されている。

「ニューカレドニア」と「漁師」、これは番組のキーワード。それに関係する役をやったことがあるから自分に依頼が来たんだろう。
そう、泉谷さんは思われたかもしれない。そう思うのが当然。が、しかし、そんな深慮遠謀はぜんぜんないのだった。

ぼくは(ディレクターのT氏も)泉谷さんが映画『天国にいちばん近い島』に出ていたことを知らなかった。いや、最近のドラマの役柄すら全く知らなかったのだ。不勉強を恥じると同時に、心の底から、この言葉をお贈りしたい。

「本当に、勉強になりました。お世話になりましたっ!」



「ミンチョウ」の店員さんと泉谷さん&全スタッフ。
  <コーディネイターY氏撮影>






PM9:32

拘束された若者は、結局、遺体で見つかった。

「生きて帰って欲しい」という、肉親の、友人たちの思いは届かなかった。

きょうは日曜日。チャンネルをひねっても、若者のニュースに接することはできなかった。新潟の地震に関しては、亡くなった女の子が「明るくていい子だった」「元気な女の子だった」と、「ニュース」として取り上げるべきではないとぼくには思える切り口で、
ただ一時の情念を刺激するだけの情報がだらだらと流されている。

ニュースとワイドショーの垣根はもう消え去った。

数ヵ月後、被災者以外のぼくら視聴者の脳裏に、あの女の子は居るのだろうか?

若者の未熟さ、浅薄さを責める声、非難する冷たい声ばかりが聞こえる気がする。しかし、彼を責めることが、戦争当事国となってしまったぼくらにできるのだろうか?

自衛隊の派遣を国として決定したその時点で、日本は戦争当事国となった。同時に、例えば外交官やジャーナリストたちが襲われ殺害された出来事、そして今回のような人質殺害事件をも内包してしまったのだ。

彼を責める人たちは、日本という枠組みの埒外にいる人たちなのだろう。

そんな立場に立てる人が、ぼくはうらやましい。
が、しかし、そんな人間に、ぼくはなりたくはない。

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*ロケ4日目 10月14日(木)--「その4」より続き。


「クニエ/海の宝石」と呼ばれるイル・デ・パンの海。



この美しい海で巻き網漁の様子を撮影したあと、S氏宅に戻る。

すると、伝統料理「ブーニャ」ができあがっていた!



さぁ、食おう!!




バナナの葉を開く。



縛っていたヤシの葉を切り、バナナの葉の袋を開く。ふわぁっと、ココナッツミルクの甘い香りが漂う。土をかぶせられ、熱い焼き石に1時間半ほど蒸された食材は、ぐちゃぐちゃ。一見、おいしそうには見えない。

が、ほろほろにほぐれた鶏肉にかじりついた泉谷さん、ひと言、

--うめぇじゃねぇか!



庭木の下で宴席開始。



撮影が終わって、ぼくらスタッフもご相伴に預かる。確かにおいしい。鶏肉やヤムイモ、バナナなどの食材の味がココナッツミルクの甘味でほどよく中和され、しつこくなく、いくらでも食べられる。

一番気に入ったのはヤムイモ。初めて食べたのだけど、ねばりがあって、ちょっとサトイモ風。しかし、“ワシはヤムイモや!”とも言うべき、しっかりとした、自身の味を主張している。これまで食べたことがない、が、これは自宅でも食べたい味だ。でも、家庭のガス台でこの味はちょっとムリかも。



イヌとネコもやってきた。



鶏肉をかじっていると、背中でなにやらフンフン鼻息が。振り返ると、S氏宅で飼っている(と思われる)イヌが「ねぇねぇ、ちょうだい」とシッポを振っていた。鶏肉をやろうと手でちぎっていると、ネコもスリスリ、やってきた。人懐っこいヤツらである。




おなかもいっぱいになったころ、S氏の息子がギターを持ってきた。コーディネイターのY氏が聞くと、S氏は島でも名高いフォークソング(たぶん『地元の歌』という意味だと思われる)の歌い手とのこと。

すると、泉谷さん、S氏のギターを手にしてポロリポロリとやりだした、そして、

--おい、チューニング、狂ってるぞ。

おぉ、さすがミュージシャン・泉谷しげる!

しばし、調弦。そして始まったのは、なんと『春夏秋冬』!

30年以上前、LPレコードで何度も何度も聞いた愛聴曲。そして、ギターを弾き始めたころ、スリーフィンガーの練習をした曲。その想い出の曲を、南の島で、それもナマで聞けるとは思わなかった。

あぁ、大感激!

ジ~ンとしていたら、S氏ご自慢の12弦ギターが登場。そのギターをジャーンと弾いた泉谷さん、

--おや? こっちはバッチリあってるじゃん。

すると、S氏、ニヤリと笑ってギターケースから調弦器を取り出した。

--なんだ、いいもん、持ってるじゃねぇか。

S氏が地元の歌を歌い出す。アドリブで合わせる泉谷さん。南の島の木陰で、思わぬ歌の共演だ。

ギターは自己流だというS氏。ツーフィンガーでスリーフィンガーを弾きこなすテクニックと、ひげもじゃの外見からは想像できない美声。なるほど、島で名高い歌い手というだけのことはある。



即興ジョイントライブ!




ギターを取りかえて。



「ブーニャ」を作ってもらうこと、そして、漁の様子を撮影させていただくことは、コーディネイターのY氏を通じてS氏側にお願いしていたこと。しかし、ギターの登場以降は、まったく予定外の出来事だ。こんなことがあるから、現場は楽しい。




短いジョイントライブを終え、S氏宅をあとにして海辺へ移動。



白い砂、澄んだ海・・・・・・。



イル・デ・パン島のビーチは、世界でも有数のきめの細かいパウダーサンド。特にこの入り江の砂は美しいことで名高い。砂浜の向こうに見える、スッと伸びた木が印象的。「南洋杉」だ。「イル・デ・パン」の「パン/Pins」とは、フランス語で「松の木」の意味。この島を訪れたキャプテン・クックが、まっすぐに伸びたこの南洋杉を松の木と間違えて命名したと言われている。

「イル・デ・パン」、日本語にすると「松島」だ。名前が同じということで、「イル・デ・パン」は、日本の名勝「松島」と姉妹都市関係にある。

--でも、交流はほとんどないみたいなんですよね。

と、コーディネイターのY氏。イル・デ・パン側は積極的なのだけど、松島の方はどうも乗り気ではないのだそうだ。



泳ぐ人もちらほら。



美しいこの浜辺。しかし、最近、日本人の女性が殺害された場所でもある。上の写真の岩陰で、旅をしていた若い日本人女性の死体が発見されたのだ。ニューカレドニアの治安は良いとされている。心地よい自然と温かい人々に心は開放的になる。だが、ひとり旅には、やはり注意が必要だ。


この浜辺では、先住民・カナックの伝統的なダンスを撮影。



踊るは「鳥の舞」。




島の女性? 腰の刺青が魅惑的。




踊りを見る泉谷さん。渋い!



ダンスをするカナックの人たち。イル・デ・パンは観光客が多いので、客が集まりそうな浜辺を回り、踊っているのだそうだ。この浜辺も西洋人・日本人がたくさんいて、撮影の準備をしている間に「なんだなんだ」と人々が集まってきた。

カメラが回り、撮影開始。すると、日本人のおじさんが泉谷さんの隣りにやってきて、

--なんの撮影すか?

と、きき始めた。本番中の泉谷さんは対応できない。そばにいたぼくが、「撮影中です。すみません」と、おじさんを引き離す。

おじさんは、

--叱られちゃったよ、アッハハ。

と、仲間に言いつつ、離れていった。ちょっとアタマにきた。

タレントは人々が注目してくれることによって生活している。だから、声をかけられると、できるだけサービスをしようとする。しかし、カメラが向けられているときは、「仕事」をしているときなのだ。

その仕事の最中であることがわかっていながら、それもカメラが回りだしてから、入り込んでくる無神経さは理解できない。仕事をしている相手に、「アッハハ」はないだろう。

『天国にいちばん近い島』で、同国人にイヤな思いをさせられるとは・・・・・・。残念。




日帰りの「イル・デ・パン」ロケ。でも、ムリだろうと思っていた夕陽が撮影できた。中央に写っている影は、この美しい夕景を撮影しようと砂浜にはいつくばっているカメラマンのH君。
お疲れさま。








10.31 PM 0:55

拘束されていた若者の遺体が、バグダッドで確認されてしまった。
ご両親の、家族の心痛はいかばかりか・・・・・。

当初から殺害する目的で拘束したとしか思えない武装勢力。
若者を拘束することで自衛隊が撤退するなど、はなから考えてはいまい。力を誇示するようなこうした行為は、決してプラスには働かないのに。

自衛隊を派兵しているだけの、実効のない日本のイラク政策。
その中で、またひとり、前途ある人間を見殺しにした。




*ロケ4日目 10月14日(木)

きょうはニューカレドニア本島の南に浮かぶ小島「イル・デ・パン」でのロケ。島で一泊できればよかったのだが、ホテルがすべて満室で日帰りを余儀なくされた。

ニューカレドニアでも最も美しいと言われる「イル・デ・パン」.
夕景や朝焼けの映像も欲しかったのだが、あきらめざるを得ない。

午前8時20分の便で島へ向かう。所要時間は25分。



かわいいプロペラ機に乗り込む。



定員40名は満席。



すぐに島影が見えてきた。


島に着いてまず訪ねたのは、左官の職人・S氏のお宅。左官と言っても、島では常に建築の仕事があるわけではない。S氏は生計の半分を左官の仕事で、残りの半分を漁業でまかなっている。巻き網などいろんな漁をするが、特に投網が得意なのだという。

前庭がパーッと広い、胸がすくような居住空間。庭木なのか、自然の林なのか、こんもりとした樹木。その下を心地よい海風が吹き抜



開放的なS氏宅。



庭の一角に立つ伝統的な家屋。



庭の林の向こうには昔ながらの家。納屋か物置などに使っているのかなと思いきや、S氏の息子(20代)の部屋だった。こうした建物は、夏は涼しく、冬(日本ほど冷え込まないとはいえ、ニューカレドニアにも冬はある)は温かいのだそうだ。

息子さんに部屋を見せてもらった泉谷さん、おみやげにと美しい巻貝をもらって大喜び。お孫さんへあげるのだそうだ。70年代フォーク界の暴れん坊も、今や孫を持つおじいちゃん。時の流れを感じるなぁ。お孫さんからは「じいじ」と呼ばれているとか。「じいじ・泉谷」・・・・・・・・なんとなく愛らしい。





S氏は、奥さんや息子さんたちと一緒に、カナックの伝統的な料理「ブーニャ」の作り方を披露してくれた。
まず、土の上にバナナの葉を十文字に敷く。そして、その上にヤムイモやカボチャ、バナナ、鶏肉などなど、いろんな食材を置いていく。



まずはマンゴーで枠を作る。


普通の人を相手にしたロケで大変なのは、やり直しがほとんどきかないこと。特に「ブーニャ」のような、普段はおめでたいときくらいにしか作らない大掛かりな料理は、「撮りそこなったからもう一度」というわけにはいかない。スタジオでやる料理番組のように、解説しながら段取りを踏んで進んでいくわけでもない。

その上、今回は泉谷さんというレポーターがいて、かつ、時間も限られている。カメラが複数あれば、1台は料理を、もう1台はレポーターをという風に撮り分けられるのだが、そんなぜいたくロケ、ローカル局ではめったにない。

今回もカメラマンは20代の若手、H君ひとり。なにを、どう撮るのか。彼のカンと感性が頼りだ。



調理現場を激撮するH君。がんばれ!


ロケ現場のカメラマンが辛いのは、映像に集中できないことだ。何度も書いているが、今、音の専門家がロケに同行することはほとんどない。音の収録もカメラマンが責任を負わなくてはならないのである。

撮影前のカメラマンは目が回るように忙しい。映像の心配をする前に、まず、レポーターにワイヤレスのピンマイクを仕込み、音がきちんと録れる状態にしなければならない。イヤホンを耳に突っ込んで音の確認をしているところに、ディレクター氏の「音、準備できたか?!」という声が飛ぶ。

--いえ、まだです。すみません!

と答えつつ、「くっそぉ、時間が欲しい」とぼやきつつも、素早く音をチェックし、カメラを肩にかついで、ようやく撮影開始となる。



S氏を撮るH君。耳にイヤホン。


撮影しながら、音もチェックする。どう考えてもこれはおかしい。カメラマンと音声マン(女性もいる)では、音に対する姿勢が違うはずだ。

カメラマンは映像が命、音は添え物。それで当然。音声マンは音に集中、どんな映像が切り取られているかは二の次。これも当然。

これはインタビューの取材テープを見ればすぐわかる。音声マンは、話し手の声のレベルを調整しつつ、収録していく。レベルが高すぎても低すぎても、聞き取りやすいインタビューにはならない。だから、話の内容よりは、音の質に神経をとがらせる。

カメラマンは違う。話の内容をきちんと聞いていなければ、いい映像は撮れない。漫然と聞き流していると、映像ものんべんだらり、締りのないものになってしまう。話が「ここぞ!」という箇所に差しかかる。カメラマンは、対象者の顔へグッと寄るなり、あえて動かずにいたり、瞬時の判断を迫られる。その繰り返しで生き生きとした映像が撮れるのだ。そのためには、カメラマンは音の質ではなく、その内容に没頭しなければならない。

カメラマンに音声マンの役割をも担わせることは、映像に対する集中力を欠かせることになる。音声は録れてはいるが、テレビから流れて聞き取りやすい音質は望めない。望むほうが間違っている。

テレビにとって音声はとても大切だ。音のない、映像だけではどうしようもない場合でも、音声さえあれば映像をあてはめることでストーリーを紡ぐことができる。そのかけがえのない音をおざなりにしている局の姿勢は、どうにも納得できない。経費節減のためという理由で済む話ではないと思うのだが・・・・・・。





S氏一家の「ブーニャ」作りは、終盤に差し掛かった。



仕上げはココナッツミルク。


食材をきれいに並べると、ココナッツミルクをたっぷり。そして食材をバナナの葉で袋状に包み、ヤシの葉でしばって準備完了。このヤシの葉のしばり方で、中になにが入っているのかわかるのだそうだ。

風呂敷包みのような形にできあがった食材はふたつ。それをそばで焼いていた石の上に置く。そして、どんどん土をかぶせて行く。あっと言う間に風呂敷包みは見えなくなった。あとは1時間半ほど、じっくり蒸し焼きにする。

どんなできあがりになるのだろう? 楽しみだ。



焼いた石を乗せていく。



土をかぶせて、あとは待つばかり!






「ブーニャ」ができあがるまで、S氏の漁のようすを撮影に出る。
朝から垂れ込めていた雲がいつの間にか切れ、太陽がぎらぎら、輝き始めた。ロケを始めて4日目、初めて本格的な太陽光線が降りそそぐ。



ついに出た南国の太陽!


肌寒かった空気が一気にあたたまって行く。陽射しはじりじり、本当に肌を焦がすようだ。ニューカレドニアはオゾンホールがあいている影響で紫外線の量が日本の3倍あるという。日に焼けても黒くならず、赤くなってしまうタイプのぼくは、ロケ初日から顔と腕に日焼け止めを塗っている。が、初日の夜、耳がヒリヒリするのに気がついた。鏡を見ると耳が赤く焼けている。

「なんで? あ、日焼け止め、塗ってなかった」

ずっと曇りだったのに、耳にはしっかり紫外線があたっていたのだ。一日で皮がむけそうに。

--だから、ぼくはなるべく陽にあたらないようにしています。危ないですから。

と、コーディネイターのY氏。日本から来た観光客など、太陽さんさんが嬉しくてついつい焼き過ぎ、救急車で運ばれることもあるそうだ。用心、用心。

しかし、太陽の光に照らし出される海は、息を飲むほどに美しい。地元の人たちはイル・デ・パン島を「クニエ/海の宝石」と呼ぶとか。まさに、その通り!



波に削られたさんご礁。



浅瀬が続く湾を行く。



深くなるほどに海は色濃く。


いつものポイントに着くと、S氏は網を入れ始めた。このポイントでやるのは巻き網漁。「ピローグ」と呼ばれる木作りの舟に乗ったS氏は、弟さんを相棒に海へ網を入れ始めた。
ここは、島へ大きく入り込んだ湾の奥。でも、すぐそこ、目の前はもう陸地。こんなところで、いったいどんな魚が捕れるのだろう?



「ピローグ」を操るS氏。



弟と共に網を入れる。


網を入れ終えたS氏、長い竿で海面を叩き始めた。網の中にいる魚を驚かせ、網に追い込もうという寸法だ。時折り、仰天した魚が海面からピンと飛び跳ねる。中には飛び跳ねた拍子に網を越えて行く運のいいヤツも。S氏の竿叩きに合わせ、舵をとる弟さんは「ピローグ」を微妙に動かしていく。さすがに息はぴったりだ。



力を込めて海面を叩く!


4、5分ほど海面を叩いただろうか。S氏は網をあげはじめた。さぁ、なにが入っているのやら?



網をあげる。大漁か?!


捕れたのは、大きなボラ2匹と黄色い熱帯魚が2匹。残念ながら大漁とはいかなかった。S氏の腕のせいではない。時間に追われるこちらの要望をくみ、漁に向かない時間帯に敢えて海に出てもらったのだ。大感謝!


さぁ、帰ろう。もう「ブーニャ」ができあがっているころだ!









「拉致された若者が遺体で見つかった」

今朝、その知らせに接して愕然とした。

ところが、その後、情報が二転三転。
運ばれてきたその遺体は違う人物のもので、もう一体、別の遺体が存在し、そちらが若者である可能性があるという。

日本という国の情報収集力を疑いたくなる醜態の連続。
米軍や他国情報筋などに頼り切りで、最先端で直接日本が情報に接していないのだろう。

しっかりしてくれよ!と言うのも、どこかむなしい。





*ロケ3日目 10月13日(水)

6時起床。7時20分、出発。
島の東海岸、チヨ(Thio)の町へ。ヌーメア市から山越えして2時間と少しかかる予定。



低い峠が連なる。


山道にでロケ車の撮影。「レポーターは山を抜け、一路、目指す街へ」という、よくあるカット。
運転するY氏と助手席に座る泉谷さんを残し、ぼくらは撮影ポイントで下車。ロケ車はUターンし、いったん峠の向こう側へ消える。

国内ならばディレクターが携帯で「準備OK? スタート!」とやるところなのだが、携帯もトランシーバーもないので、撮影の準備が出来たかどうかは運転するY氏のカンに頼るしかない。

数分後、峠を越えてロケ車がやってきた。ベストなスピードで坂を下り、カメラの前をスーッと走り去った。

--よしっ!

と思ったら、カメラマンが、

--すみません、映りました。NGっす。

ロケ車を追ったカメラがピタリと止まるその画面の隅に、路傍に座っているぼくが映ってしまったのだ。
あっちゃ~、やり直しだぁ。ここなら映るまいとうずくまっていたのにぃ!


戻ってきた泉谷さん、

--どうだ! バッチリだろ!!

--すみません、もう一度お願いします。ぼくが映ってしまいました。

--なにぃ?! しっかりしてくれよぉ、シロウトじゃねぇんだからさぁ。

平身低頭、平謝り。
でも、泉谷さんは気軽にもう一度やってくれた。言葉は荒いが、気のいい人だ。


旅をする泉谷レポーターの姿を追うために、撮影は車の中でも続けられる。



マイクを向けるディレクター氏。




ディレクター氏はモニタもチェック。


9人乗りのロケ車は内部も広い。それでも、10キロのカメラをかかえて動くのはきつい。カメラマンのH君、最良のアングルを求めて、大柄な体をああだこうだと移動させる。おじゃまなぼくは、後部座席にひとまず退散。

映像だけではなく、音も録らねばならない。泉谷さんの胸にはピンマイクが仕込んであるが、運転するY氏の声や走る車の音などは別のマイクで録る必要がある。

ディレクターのT氏は、ここで音声マンに変身。マイクを運転席に突き出す。同時に、胸に抱えた小さな液晶モニタを見つめて映像のチェック。40代も後半に差しかかった体をねじって大奮闘だ。
昔は(大きな取材チームなら今でも)「ビデオ・エンジニア(VE)」と呼ばれる映像チェックの担当者がいたのだが、ぼくらの取材から消えて久しい。
スタッフの数は削り削られ、現場の負担は増すばかりだ。




東海岸の町「チヨ」に着く。まず訪ねたのは、ニッケル鉱山。



雄大な露天掘り。


ステンレスなどに加工できるニッケル。ニューカレドニアはニッケルの産出量が世界第3位。埋蔵量は世界一とも言われている。数年前まで、独立を求める先住民の運動が激しかったのだが、宗主国フランスはそれを許さなかった。その最大の理由が、このニッケルだと言われている。確かに、島の経済の大半を支えているのがニッケルで、日本などに輸出することで多くの外貨が入ってくる。

--だから、観光にそれほど力を入れようとはしないんですよ。ニッケルで潤ってますから。

と、コーディネイターのY氏。
なるほどね~。経済基盤がしっかりできあがっているから、是が非でも観光で生きて行かねばという必然性がない。だからこそ、美しい海や山という自然がほとんど破壊されずに残っているということになる。ニッケル様々と言うべきか。
しかし、『天国に一番近い島』がこの無残に刻まれた山に支えられていると思うと、気分は複雑だ。



新たな鉱脈を求めて掘り進む。


ニューカレドニアと日本をつないだのが、このニッケル鉱山だ。
明治25年、ニューカレドニア東海岸のチヨ港に600人の日本人を乗せた輸送船・廣島丸が入港した。全員がニッケル鉱山で働くべく海を越えてやってきた、天草を中心に集められた肥後もっこすたち。今回の番組のテーマ「ニューカレドニアの投網は『細川流』か?」が生まれた根拠もここにある。

このニューカレドニア移民を決めたのは、函館・五稜郭に立てこもったことで有名な榎本武揚。明治25年当時、榎本は外務大臣を務めていたのだ。この事実を知ったとき、ちょっとびっくり。榎本は大政奉還後、混乱する明治新政府に武力で対抗した“逆賊”だと思っていたから。

江戸幕府の軍艦奉行だった榎本は新政府への軍艦引渡しを拒否。五稜郭に立てこもり、『蝦夷共和国』を宣言する。フランスとイギリスはこの“共和国”を“政権”として認めているから、日本の中にもうひとつ、新しい国ができたと言えなくもない。

半年間ほど五稜郭に立てこもったあと、榎本は投降、入牢する。国の軍艦を奪い、生まれたばかりの明治政府に対抗したのである。ま、当然だ。

しかし、榎本のただ者でないところは、周囲の人間が彼を見捨てなかった点。その才能を惜しんだ西郷隆盛や福沢諭吉、黒田清隆などそうそうたる面々が榎本の助命を嘆願したのだ。その意を受けた新政府により特赦された榎本は、わずか3年余りで公職へ復帰することとなる。

新政府に弓を引いた大犯罪人のハズの榎本は、なんと、その謀反を起こした北海道の開発に携わる。
う~ん、激動の時代とは、想像もつかない動き方をするものだ。

榎本は公職についてからも、旧幕臣たちの救済に尽力したという。入牢したその日から牢名主にまつりあげられたという逸話も残っているほどだから、親分肌の傑物だったに違いない。

そんな榎本武揚が、初代逓信大臣(旧郵政大臣、現総務大臣)、文部大臣などを務めたあとに就任した外務大臣として初めて手がけた仕事が、この「日本人ニューカレドニア移民」なのだった。






東海岸へ到着。風が強い


チヨの町を訪ねたのは、鉱山でのロケだけではない。この町に、投網の名人がいるというのだ。
名人のJ氏は、投網や巻き網などを駆使し、漁業だけで生計を立てているという。つまり、今ではニューカレドニアでも数少なくなった“専業漁民(こんな言い方、あるのか?)”なのである。



海に面したJ氏宅。




庭には美しい花が。


戦前、日本人の移民が使っていた家を改造して住むカナック族のJ氏は、自分が捕った30センチほどの魚を2匹、丸ごと焼いてもてなしてくれた。他にも、エビ入りサラダ、ヤムイモとバナナにカボチャの煮物、カボチャ入りオジヤ風ごはん、そして刺身。どれも、素材の味がしっかりしていて、そのうまいこと! ロケを終えた泉谷さんもお気に入りで食べ続ける。

J氏の10歳になる長男はサッカーが大好き。J氏が「イセエビを捕って買った」というサッカーシューズとスネあてを見せてくれた。



近所の子どもたちが集まってきた。


子どもの学用品や家電製品も「イセエビやブダイで買った」と言うJ氏。これまで投網で捕った最大の獲物は、50センチ級のシマアジだそう。これは期待できそうだ!



投網に挑むJ氏&見守る泉谷氏。


自分で組み立てたという車でゆるゆると海岸を行きながら魚を探すJ氏。驚いたのはその視力。

--あぁ、あそこにブダイが15、6匹かたまってる! もっと、近くにくれば捕れるんだけどなぁ。

と、J氏が悔しげに見つめる海面。しかし、いくら目を凝らしても、なにも見えない。ただ、波が白く砕けているだけだ。魚が見えないのはぼくだけではない。J氏以外の、その場にいた全員、なにも見えないのである。聞けば、J氏の視力は5.0以上あるという。アフリカの草原で狩りをする人たちは驚異的な視力を持つと言ったりするが、狩猟をなりわいとする人の能力には驚かされる。

あいにくきょうは強風。J氏がいつも漁をしている場所も波が荒く、魚が岸壁に近づいてこない。だが、撮影を終えても、J氏は海を見つめ、魚の姿を捉えると腰を落として近づき、投網を投げ続ける。コーディネイターのY氏が「もういいよ」と言っても、やめようとしない。

--プロの漁師の意地だな。

と、泉谷さんは感心しきり。同感。



獲物を探すJ氏。たくましい。





次に訪ねたのは日本人墓地。
チヨの町は、日本人移民が最初に上陸した町。また、最も多くの日本人が働いた町でもある。
多くの日本人たちがこの異郷の地で命を落とした。風化してざらざらになった墓石からは、明治・大正、そして昭和初期の年代が読み取れた。



山かげに広がる日本人墓地。




昭和8年、慰霊碑が建てられた。


最後の移民は大正8年。5500人以上の日本人が夢を求めてニューカレドニアに渡った。中には、地元の女性と結婚し、鉱夫としての5年間の契約期間を終えてもそのまま島に留まった日本人も多い。

このニッケル鉱山への移民は、第二次世界大戦の勃発と共に悲劇に終わる。フランス領ニューカレドニアは連合国側。日本人は敵国人として強制収容され、オーストラリアの収容所に送られた。そして、戦後、日本へと送還される。

その後、戦後の混乱をこえて再び島へ戻った夫たちの数は少ない。多くの妻や子どもたちが、「敵国人の家族」として辛い日々を送ることになってしまうのだ。






明治25(1892)年1月25日。はるかな海を越えて、600人の日本人がこの海岸にたどり着いた。








イラクで拉致された若者の実家へ、中傷の電話やメールが殺到しているという。
やっぱりいるか、想像力の欠如したヤツらが。

わが子の生存を祈る思いは、地震で生き埋めになった妻子の無事を願う夫の思いと変わらない。

若者の行動の軽率を非難することと、国がその生命の確保に力を尽くすことは、
同列に置いて考えるものではない。
どのような経緯であれ、国民の命を守るのは国の義務なのだ。
それに自分の税金が投入されようと、ぼくはいっこうにかまわない。
ムダ金ではないのだから。

非を責めたいのなら、若者が解放されたそのあとで、彼自身に向ければいい。
自業自得だと切り捨てることだけは、国もぼくらもやってはならないことなのだ。







*ロケ2日目 10月12日(火)

5時起床。う~ん、眠い・・・・・・。

日本との時差は、プラス2時間。
「な~んだ、なんてことないじゃん」と思っていたのだが、この時間差は実にビミョ~。

飛行機の中でも、日本時間では午前3時ころに叩き起こされ、朝食のサービス。
え~、メシ? まだ食いたくないよぉ、と思いつつ、メシ食わざれば力なし、ムリヤリがばがば食ったら、着陸したあとで気持ちが悪くなってしまった。

午前5時だから、日本は3時かぁ。そう思うとまたまた眠い。
そんな目玉でバルコニーの外を見る。

--わぁ、海が見えるっ!!



青い色が目に痛い。



早朝とは思えん・・・・・・。


きのうは晴れたり曇ったりだけど、今日はお天気、期待できそうだ。





午前6時、ホテル出発。ぼくらがやってきたのと同じ便で着くタレントさんをお迎えに行く。



時間通り、無事到着。


今回の番組で主役&レポートをお願いしたのは、泉谷しげるさん。

--粗野で、ぶっきらぼう。だけど、どこか優しげで、
--あったかさを感じさせてくれる人がいいよね。

番組のイメージをほぼ決めて、じゃぁ、誰にやってもらおうかとディレクターのT氏と話しをし、こんな人物だったらいいなぁということになった。そのとき、頭にピンと浮かんだのが泉谷さんの顔。

おぉ、そりゃぁいい!!、ということになったものの、果たしてOKしてくれるかどうか。ローカル局の、地味なドキュメンタリー番組が、名のあるタレントを起用するのは、実際、とても難しい。

まず、予算が折り合わない。以前、某ローカル局で某有名女性タレントにレポーターをお願いしようとアプローチしたら、1泊2日で金100万円也のギャラを提示してきた。
1泊2日と言っても、ほぼ確実に夕方やってくるから、1日目は打ち合わせができれば御の字。2日目は遅くても最終便で東京へ戻るから、結局半日しか働かないことになる。

それで100万だぁ? ふざけんな!!

そんな提示に乗っていたら、ローカルの仕事はおいしいと思われてしまう。

即刻、却下! 値踏みしたのかもしれないが、そんな、相手の腹を探るようなタレント(窓口はマネジャーだが)は、こちらから願い下げである。

しかし、「ふざけるな!!」という例がかなりな率にのぼるのも事実ではある。だから、泉谷さんが出演を受けてくれるのか?、ダメじゃないか?、どうせダメだろう・・・・・・・・だんだん意気消沈。

こら、アカン!

ダメもとでT氏が泉谷さんの事務所に依頼の電話。すると、あっさり出演を快諾いただいた。
ギャラも上記の女性タレントとは段違い、(制作側にとって)良心的な額である。

驚いたのは、お願いをしたこちら側。

--え? え? OKだったの? ど、どうしよう・・・・・・・・・・・・・・。

てなもんである。オロオロ、情けない。

今の泉谷さんは俳優というイメージが強いけど、レポーター候補を考えたとき、ぼくの頭に浮かんだのは、ギターを抱えてジーンズが破れるほどにステージで暴れ回っていた泉谷さんの顔だった。

ぼく個人にとって泉谷さんは、やはりフォークシンガー。
デビューアルバムから3枚目くらいまでは、リアルタイムで買っていたし、『春夏秋冬』『黒いカバン』『春のからっ風』『眠れない夜』『白雪姫の毒リンゴ』『国旗はためく下に』などなど、ギターを手にしたころに弾いていた曲も多い。

--できれば、ニューカレドニアでギターを弾きつつ歌ってもらえないかなぁ。

出演を快諾してもらったとたん、欲求はデカくなる。
ディレクターのT氏が打診するも、これはさすがにNG。
“ミュージシャン”泉谷と“俳優”泉谷は、きちんと区別しておきたいのだとか。

いや、確かにそれは当然ですね。調子に乗りました。すみません。





前日もドラマのロケで午前様だったという泉谷さん。空港から出てきたときは、まだまだ夢見ごこちという感じ。まずはじっくりお休みいただきたいのだが、スケジュールがそれを許さない。

申し訳ないながら、仕事へ突入させていただきます。

まずは、『ニューカレドニア博物館』へ。資料の映像や研究員のインタビューは前日に取材済みなので、泉谷さんには展示されている先住民族「カナック」の伝統的な漁具を見つめつつ、感想をひとつふたつ、言ってもらうことに。
いちおう、台本らしきものはあるが、レポーター・泉谷の感じを大事にしたいので、どう反応するかは泉谷さんにお任せだ。

ライトがあたり、カメラが回ると、それまでほとんど眠っていた泉谷さんの目玉が輝き始めた。そして、ストーリーにピシャリと合った言葉を紡ぎ出す。ほとんど、ワンテイクでOKだ。

--オレは現場に立ちゃぁ、だいじょうぶなんだよ。心配すんなって。

ロケ車の中で、居眠りしつつムニャムニャ言っていた言葉は本当だった。

さすが、プロだなぁ。大感心!!



街角の小さな店が次のロケ先。


次の取材は、ニューカレドニアで最も大きい(と言っても、上記の写真で見る通りの店構えだけど)漁具店。ご主人の話によると、この店では、毎年、投網が800枚も売れるのだとか。投網がそんなに売れる店など、日本にはないだろう。ニューカレドニアでは投網が盛んなことがよくわかる。



投網を背景に店主と話す泉谷氏。


昼食に山盛りのサラダを食べた泉谷さんは、気合充実。お店のご主人から投網についての話を聞き出す。それも、いきなり本題に入るのではなく、遠まわしに相手の出方を見つつ、徐々に話を焦点に絞っていく。

取材が専門の局のディレクターでも、いきなり本題に入って相手を沈黙させたり、萎縮させたりすることがあるのに、うまいもんである。マネージャ氏は、レポーターはそんなにやったことはないと言っていたが、いやいや、やっぱただ者じゃないです。



ディレクターはライトも照らす。


泉谷さんと店のご主人との一連の話が終わると、店内の撮影。まずは、壁に吊り下げられている幾枚もの投網。サイズもいろいろだが、日本のものよりも小振りだ。

この投網、日本人がこの島にもたらしたのだろうか?

番組ではレポートの間をつなぐ、「インサート」と呼ばれるこうした撮影には時間がかかる。
スタッフはカメラマンとディレクターのふたりだけ。気分は次のシーンに飛んでいるディレクターのT氏、焦りながらも、壁の投網にライトをあてる。
T氏はカメラも回す。なんでもできなければ、ローカル局のディレクターは務まらないのだ。
ぼくはただ見てるだけ。申し訳ないなぁと思うのだが、みだりに手を出すとかえってジャマになる。

餅は餅屋、自粛自粛。





島一番の漁具店のご主人は、趣味で投網を打つという。
その投げ方は『細川流』なのか? 見せてもらうために海岸へ向かう。

昼間は陽射しが強かったのだが、いつの間にか曇天に。



垂れこめる雲。


まだ4時過ぎなのに、薄ら暗いし、吹く風が冷たい。
予想していた南の楽園『天国に一番近い島』のイメージとはかなり違う。
島があるのはオーストラリアとニュージーランドの間あたり。南半球なので、今が春から初夏に向かう季節。毎年、こんなもんなのかなぁと言うと、コーディネイターのY氏が、

--皆さんが来るまでは、ずっと晴天続きだったんですけどねぇ。

なぁるほど。台風に直撃された浦安ロケといい、このロケは天候にたたられる運命なのね。

嵐を呼ぶ男は誰じゃ!!


浜辺に着いたご主人、デモンストレーションをお願いすると、さっさと投網を素早くまとめ、ポイッと投げ捨てた。



「あらよっ」。


おんや? なんか妙だなぁ。

投網を“打って”いるという感じではない。ヒョイと放り投げている、そんな感じ。
泉谷さんとのやりとりを聞くと、「浜辺では魚が見えるから、その上に網をかぶせるだけだ」とのこと。確かにそれで魚を捕るには十分だ。
しかし、ご主人の投網は、まるで花火のように、華麗に大きく開く『細川流』の投網とは、とても言い難い。

日本人が伝えたとされる投網。そこに、求める『細川流』は、ありやなしや?





曇って明かりも薄れてきたので、浜辺の撮影できょうのロケはおしまい。
夜のシーンは予定してないので、いったんホテルに戻り、食事へと出かける。

きょうの夕食は、コーディネイターY氏おすすめのベトナム料理店『ミン・チョウ』。
移民が多いニューカレドニアは、日系人の他にもベトナム系やインドネシア系の人たちなどがいる。中心都市のヌメア市は、ガイドブックなどでは“プチ・フランス”といった書き方をされているが、街を歩く人たちは浅黒い肌のメラネシア系の人たちの方が多いし、レストランもフランス料理ばかりではなく、ベトナム料理や日本料理、イタリア料理など多岐に富んでいる。

が、しかし、イタリア料理は食べない方がいいというのは、いろんな人から聞いた。WHY?

『ミン・チョウ』では、ビールで乾杯のあと、「これを食わなきゃ、ベトナム料理の店に来た意味がねぇ!!」と泉谷さんおすすめの“鶏肉のフォー”をまず食す。
これがめちゃめちゃうまい!! 米の麺に鶏のスープがよくからみ、熱過ぎず、かといって冷めてるわけでもなく、なんとも心地よい温かさ。

はぁ~、疲れが飛んでいくぅ・・・・・・・・。

--な、うまいだろ?! 「フォー」を食わずになんのベトナム料理かよぉ!
--今は日本でもインスタントがあるから、お前、帰ったら食えよ!

泉谷さん、ゴキゲン。楽しい人である。





夕暮れ。ホテルのプライベート・ビーチ(五つ星には、こんなもんもついている!)では、若者たちがパラセーリングを楽しんでいる。
海の水は、入れた手をヒュッとあげてしまう冷たさ。

本格的な夏は、まだまだこれからだ。







18:33

拉致された青年のお父さんが声明文を読み上げ始めた。
もう、見ていられない。

また、自己責任論がわいてくるのか。
今度は大手を振って、大通りのど真ん中を闊歩しそうだ。

自己の興味好奇心を抑えきれなかった若者の未熟を責める前に、
世界の中で自分たちの国がなにをしているのかを知る方が先だろう。

テロに屈せよ、いいかげん。
それで西側世界の孤児になってもいいさ。


早く帰ってきてください。





10月11日。朝、7時30分。

ニューカレドニアのトントゥータ国際空港に降り立つ。

スタッフ、ディレクターのT氏、カメラマンのH君、そして、おまけで付いて来たぼく。
この3人で、これから19日までのロケを敢行だ。


愛らしい空港。ヤシがいい感じ。



ニューカレドニアまで、成田からおよそ8時間。早いと言えば早い。
学生時代、新幹線で9時間、立ちっ放しで上京したことを思えばなんでもないハズなのだが、座席の狭さはなんとかならんもんだろうか。取材の旅は当然エコノミークラス。身動きするのも辛い。
隣りに座ったフランス人らしき大きな男性、ぎっしり座席に詰まっていた。お気の毒。


静寂な空港。人影まばら。



しかし、静かな空港だこと。
海外航路が就航しているから確かに「国際空港」なのだろうが、ガランとしている。到着した客の大半、9割近くは日本人。それも新婚か、それに近い若者カップルばかりだ。

先頃亡くなった森村桂さんの『天国にいちばん近い島』のおかげで、日本でのニューカレドニアの人気は高い。だが、その他の国からの観光客はめったに来ないとか。

ロケの拠点となるホテルへツアーバスで移動。
ぼくら以外は日本人の若いカップル。案内するお兄さんも日本人。
着いたホテルで出迎えてくれたのも、日本人スタッフ。異国に来た気がしないなぁ。





ぼくら最初の宿、ホテル『メリディアン・ヌメア』は超豪華。なんと五つ星!



「メリディアン・ヌメア」正面。



部屋数は250を超えるとか。



五つ星の証明!


こんなホテルに泊まるのは生まれて初めて。
ローカル局の海外ロケでこんな贅沢が許されるのか?とも思うが、これは翌朝到着するタレントさん向けの配慮。気持ちよくロケを進めてもらえれば安い出費。

ニューカレドニア観光局の協力もあり、宿泊費もいくぶん抑えてもらったようだ。

ひとまず、ホテルの部屋に荷物を置く。
機材、全部トータルするとその重さは90キロくらいになるだろうか。
これを、ディレクターとカメラマン(音声兼任)のふたりで運ぶのだ。
ぼくもちょろちょろと手伝うが、ロケは体力勝負を実感する。


これに三脚をプラス。重い。


ホテルにチェックインして、さぁ、きょうの仕事はお~わり、とは行かない。
ひと休みして、さぁ、取材に出発だ!





コーディネイターのY氏が、これから6日間、ぼくらの足となってくれるレンタカーで迎えにやってきた。
9人乗りの巨大なバン。

--おぉ! プジョー! かっこよか~!


大柄プジョー。走る走る!



ナンバーは簡潔明瞭。


--やったぁ、外車だぁ!!

が、しかし、ここはフランス領。走る車はプジョー、ルノーとフランス車だらけ。
憧れの外車も、ここじゃ国産車。これ、あたり前。

使われる場所でその価値が決まるというのは、おもしろいもの。
以前、ユーゴスラビアでロケをしたとき、駅前にぎっしり止まっているタクシーが全部ベンツだったのに驚いたことがある。中古になったベンツが多量に流れてきて、低価格乗用車の代名詞のようになっていた。
このとき、ぼくのベンツに対するほのかな憧れは消えた。





ロケ車で最初に行ったのは、ヌメア市外が一望できる丘。
陽がさしたり曇ったりの天気。風が強く、ジーンズ地の長袖をはおってもなお肌寒い。
しかし、180度見渡せる景色は絶景だ。


最初に見た景観。



見えていたセント・ジョセフ大聖堂。


と、そこへ奇妙な列車が!


あ~ら、かわいい!


コーディネイターのY氏によれば、これは「プチ・トレイン」と呼ばれる周遊バス。ヌメア市内の主なビューポイントを回ってくれるとか。グループでの貸切もできるので、団体旅行に喜ばれているそうな。
確かに、のんびり走る汽車で市内観光というのもオツなものかも。所要時間は4時間程度だ。





--プチ・トレイン、乗りたかぁ!

そんなぼくの声は無視され、次の取材地、『ニューカレドニア博物館』へ。


博物館は瀟洒な建物。


ニューカレドニアは、1774年9月5日、キャプテン・クックが発見し、紆余曲折を経てフランスの植民地となったが、当然、先住民がいる。

「カナック」と呼ばれるメラネシア系先住民の伝統文化を中心に、貴重な資料を展示しているのが『ニューカレドニア博物館』だ。

館内はカナックの様々な生活文化、住居や狩猟用具、仮面や彫刻などの宗教儀礼に使用したものなど、興味深い品々でいっぱい。
が、残念ながら撮影禁止。テレビカメラでの撮影のみ許可。


中庭にも伝統的な家が。


資料を撮影したあと、研究員の方へインタビュー。
だが、約束の時間を過ぎても現れる気配はない。いらつくディレクターのT氏。
コーディネイターのY氏が「これがニューカレドニア・タイム。そのうち来ますって」となだめる。

果たして、当初の約束の時間からおよそ1時間45分ほど遅れて、インタビューが始まった。

ぼくは、通訳をするY氏の後ろに座り込み、研究員とT氏とのやりとりに耳を澄ます。必要な内容がとれているかを判断するのだけど、ディレクター氏もシロウトじゃない。別にぼくがいなくてもちゃんとした取材になるのだ。
逆に、取材対象者にプレッシャーとならないか、気にかかる。

ロケに同行すると、こんな、身の置き所に困ることが多々ある。
要するに、ぼくは用無しなのかも。





今回、ぼくらが追っているのは「投網」。
ニューカレドニアでは投網が日常的に行なわれている。その投網は“日本人が伝えた”という説がある。

明治中期から戦前にかけ、ニューカレドニアには、6000人近くの日本人が鉱山で働く工夫として移住している。その多くは熊本県人なのだが、その人たちが仕事の合い間に打っていた投網を見た地元の人が、「こりゃ、いい」と自分たちの生活に取り入れたのではないか?
そんな推測から、番組の企画が始まった。

投網には大きく分けて『細川流』と『土佐流』という打ち方がある。

投網に流派があるとは!

知ったときは驚きだった。漁師の皆さん、網をいい加減に放り投げているわけではないのである。
その流派のうち、熊本県人が多数移民で入ったニューカレドニアに伝わったのは、熊本を中心に盛んに行なわれ、江戸川周辺にも広がっていた『細川流』ではないか?

それが、ぼくらが立てた仮説。それを解きほぐしていくのが今回のロケの目的だ。


インタビューに答えてくれた博物館の研究員は、カナックの血を引く方。その方が言うには・・・・・・・・、

・カナックに投網文化はなかった。

・ヨーロッパ系(フランス人)が投網を伝えたとは考えられない。

・日本人が投網を伝えた可能性は高い。実際、自分(研究員)の先祖に日本人と結婚した女性がいたが、その日本人は村の人々に投網を教えてくれた。

おぉ、実際に日本人から投網を習ったとな!!
こいつは、なかなか幸先いいぞ!!





街角や、広場でくつろぐひとたちなどを撮影しているうちに早くも夕暮れ。
まだ5時前なのに。南の島は、日が短いのかな?

夕暮れビューポイントへ。あいにく雲が出て、海に沈む夕日は撮れなかった。
しかし、それでもあかね色に染まる空と海は美しい。






取材を終え、ホテルの部屋へ。
ダブルベッドがどーんとふたつ。広いバスルームには、バスタブとシャワーが別々に。
仕切りは透明ガラス。あな、豪華。


ひとりでは広すぎ・・・・・・・・・。



バスルームから寝室が見える。



シャンプーなんかもおしゃれ。



こんな広い部屋にひとりというのは落ち着かない。
ディレクターのT氏とカメラマンのH君は同室。男ふたりというのも、奇妙な感じだろうなぁ。
仕事で泊まるホテルじゃないな、やっぱり。

あしたは5時起きでタレントさんをお出迎えだ!



磐石であるはずの地面が揺れる。それはそれは、コワいこと。
警戒しろと言われてもどうしようもない。
支え合いつつ、静まるのを待つばかりだろう。
しかし「二世帯2人が避難」という報道を見るにつけ、
一人暮らしのお年よりが多いことを痛感する。
そして、亡くなった人も・・・・。
生まれて二ヵ月目の赤ん坊が揺れの激しさにショック死したとの情報も。

お年よりも赤ん坊も、そんな命の終え方をするために生まれたわけではあるまいに。

台風に次ぐ自然災害。
「自然の威力にはかなわない」と言っていても始まらない。
猛威をふるう自然とどう折り合っていくか。正念場だ。





長い間、「メール更新」が続いたなぁ・・・・・。
久々にパソコンに向かう。なんか新鮮。

『天国にいちばん近い島』、ニューカレドニア。
やはり、海は、目が覚めるほどに美しかった。

イル・デ・パン島の海。

まき網漁にいそしむ漁師たち。


ニューカレドニアロケ。
1週間ほどの予定だったのが、台風にも巻き込まれ、結局11泊12日に。
自宅に戻って5日目。ロケに同行しつつ、撮った写真を中心に、
ローカル局の取材現場を、あしたからそろそろと書いていこう。


疲労が腹にきた。
きのうの夜中はトイレの嵐。きょうはフトンでゴロゴロ。
台風の中、アタフタしたけれど、疲労したのは超過激満員電車のせい。
学生時代、駅で尻押しのバイトをやっていた友人がいたが、
いまだに人を人として扱わない乗客詰め込み作業が行われているとは思わなかった。
そんな中、携帯に出た会社員風の若者。
几帳面に「ハイ」とだけ応え、切ったとたんに「ウゼエ~」と言った。
うんうん、ウゼエよね。
雨で濡れた上にスーツ&ネクタイで汗みどろ。そんな最中に仕事の電話じゃね。
でも、満員電車じゃ、携帯、出ない方がいいと思うよ。
うぅ、長袖Tシャツにトレーナーを重ね着しても涼しい。
10月もあと一週間。9月中旬からウロチョロしているうちに、秋もすっかり深まった。
きょうは録り貯めしていた番組の整理。
7回分の「ONEPIECE」、CMカットしてDVDに落としつつ見る。
空から帰ったルフィたち。海の要塞を出てようやく本筋に。
長い道草だった。

道草と言えば、明大の一場君も野球の道が大きく蛇行だ。
自己利益のみ追求する企業論理に巻き込まれた小ヒツジとも言えるが、余りに幼い。
大リーグに行く道も探っているとか。
大リーグを逃げ道にするというのは、ちと情けないぞ。


洗濯をしていたら宅配便が。ロケに持って行ったコロコロバッグが届いた。
ニューカレドニアの空港で、ぼくのバッグだけ、何故かシドニーへ行ってしまっていたのだ。
成田でアゼンとしたけれど、おかげで台風の中、重いバッグを引きずりながらウロチョロせずにすんだ。大ラッキー!
でも、着替えもないから「着た切りスズメ」。
濡れるは、汗はかくは。無精ヒゲづらだし、さぞかしバッコイ姿だったろう。あぁ、恥ずかしい。
空港であまりに荷物が少ないのも奇妙な感じだった。

さてさて、バッグが着いたので洗濯物がどっと増えた。
次で3回目。ハンガー、足りるかな?
19日の夜に帰国。台風が大歓迎。
20日。羽田の搭乗口で「あと10分だ」と思っていたら「欠航いたします」のアナウンス。
一斉にあがる「え~っ!」の声。もっと早く決めんかいっ!
空港ロビーは大混雑。結局、福岡行きは全部欠航。あらま、帰れない。
台風に怒ってもしゃーない。宿を探さねば。
iモードであちこちあたるも、満室の嵐。1泊3万の豪華ホテルしか空いとらん。
ようやく見つけたのは府中駅から徒歩3分のビジネスホテル。府中に来たのは初めてだ。
で、今、21日のAM10:20。新宿に向かう京王線の中。
いやはや色んなことがあるもんだ。
PM7:30
成田空港の搭乗口に無事到着。あとは乗るだけだ。
ニューカレドニア行きは満席。搭乗口には若い日本人女性のグループ多し。
お金と暇があるのは独身女性なのかしら、やっぱり。
ぼくも仕事じゃなければ、行けはしないだろう。
その意味では役得でもあるが、ロケ終了後を思うとアタマが痛い。
島に行って終わり、だったらいいのになぁ・・・・。
ロケは毎日、朝4時5時起き予定。
朝日を撮りたいし、朝の空気の雰囲気を撮りたい。
タレントさんがその雰囲気に馴染んでくれるか。
それはカケみたいなもんだ。がんばろ。
コロコロバッグを買い換え、旅の準備。
必要最小限に抑えたいが、洗濯なんぞしたくはないし。
Tシャツなぞをギチギチに丸めて詰め込む。結構入るもんだなぁ。
必需品はウガイ薬「ガーグル」。
慢性扁桃腺炎のぼくは、旅先でいつもガラガラ。
今回は初めて日焼け止めも持参。
ニューカレドニアはオゾンホールの影響で紫外線が超強力。
「気いつけんと皮膚ガンになるぞぉ」と脅された(ホントか?)。
当初、1週間程度の予定だったのが、結局10泊11日に。
その内、機内泊2日、東京泊1日。実質やっぱり1週間か。遠いんだなぁ。
南の島は暑そうなので、県庁所在地まで髪を切りに行く。
10センチくらい切ってもらおう。ほとんどザンギリ頭。
学生時代はアゴの下で結べるくらい長くても平気だった。
今は暑苦しくてアカン。あの髪形のどこがよかったのだろ? 若さというのは不可思議。

ぼくはスピード狂ではないのだが、運転は好き。
都会まで車でおよそ一時間。MDをガンガン鳴らしながら走ると気分爽快。
部屋と車とでは聞く音楽が違う。おなじヤカマシイ系でも、部屋ではヘピメタ、車ではパンク。
今日はClashで安全運転だ!
なんとなく変・・・・?

朝、8時ちょい過ぎ。

さて、仕事でもするか、とテレビを消そうとした瞬間、
「ジョン・レノンが歌う初公開映像!」という声がチラリと聞こえた。

--ん、なんじゃ?

見ていると、アコースティック・ギターをかかえたジョン・レノンが
『イマジン』を歌いだした。

--おぉ、ジョン・レノン! おぉ、『イマジン』!! あぁ、いいなぁ、やっぱり・・・・。

映像はオノ・ヨーコさんが所蔵していたもので、
1971年12月17日、アポロ・シアターでのライブ。
日本で行なわれる「ジョン・レノン・スーパー・ライブ」に合わせ、
1回だけ公開を許可したものだとか。

アコースティック・ギターを弾きながら『イマジン』を歌うジョン・レノンの映像は
これしかないんだそうな。

--よかぁ・・・・・。テレビ、見ててよかった。

ジーンとしていたら、曲の途中で司会者の顔に変わり、

「許可されたのは、ここまでです」

--なんだよぉ!! 中途半端過ぎるぞぉ! 欲求不満じゃぁ。
--ヨーコさん、全部見せて、お願い!!!





午後4時。

天気がなにやら怪しげな雰囲気になってきた。一気に暗く。
台風が、「く」の字形に方向を変え、こちらを目指してやって来る。
上陸すると何度目になるんだろうか。
これまでの台風で、幸い我が家は被害はないけれど、やっぱり気になる。

次の日曜日から海外ロケが控えているので、今まで以上にやきもき。
飛行機で羽田まで行き、羽田から成田までは京成電鉄の成田エクスプレスで。
しかし、今のコースで台風が進んでくると、羽田まで行けるかどうか?

土曜日に前乗りした方がいいのかなぁ。
一日、早くなると準備が面倒だし、台風が来ている最中に家を放って出るのも気がかりだ。

今、台風は時速10キロくらいで、ちんたら、進んでるらしい。
もっとスピードをあげてくれぇ。
時速60キロくらいで、ビューンと行き去って欲しいなぁ。

用心のため、JRその他、地上を進むルートを検索。
自宅を午前11時半に出れば、新幹線などを乗り継いで、出発時刻の1時間40分前に成田へ着ける。
だが、本州を西から東へ台風が進むと、新幹線も止まる可能性が。

う~む、どうするかなぁ・・・・・。

ま、いっか。
なんとかなるよな、きっと。





浦安ロケ、ちょっぴり紹介。

台風到来の中、埋立地の最先端で東京湾の撮影中。
時に横殴りの雨。カメラはレインコートを着るが、スタッフは濡れねずみ。



タオルをかぶっているのがディレクター氏。



翌日。
台風一過とはよく言ったもの。ほんとに雲ひとつない青空だ。



あっけらかんと大ピーカン。



晴れ上がったおかげで、きのう、撮った映像とつながらなくなってしまった。
出来る限りの撮り直し開始。



ディレクター氏はモニターを凝視。



東京湾も、もう一度撮影。きのうと同じ場所とは思えない。
埋立地の突端は、フェンスが限りなく続いている。



幕張副都心と千葉市が見える。



新浦安駅前はきれいに整備されている。
バスロータリーに、タクシー寄せも、きちんとしてていい感じ。



平日の昼間、人影少なし。



駅の周辺は高級マンション林立。
高くそびえるふたつの高層マンションには、某超人気俳優一家がリゾート用に購入した部屋があるとか。



高層マンション屋上で撮影したかった。



浦安市の旧市街にある郷土博物館の投網船の上で、
昔、江戸川で投網を打っていた元漁師さんたちにお話を聞く。



ワザを極めた人の話はおもしろい。



この続きの撮影は、「天国にいちばん近い島」ニューカレドニアで。

--なぜ、そんなところまで行くのか? 行かねばならないのか?

う~ん、難しい質問じゃ・・・・・・・。



こんなかっこう、されるとなぁ・・・・・。



「あらよっと」


やる気、なくすぞ、てめ~!! 一緒に遊べっ!!!






ロケに同行したのは久しぶり。
会社側が、人手を削り、経費を削ろうとしている中、懸命に働くスタッフを見て考える。
削った経費はどこへ行くのだろうか?

ローカル局での取材体制は、ディレクターとカメラマンのふたり組が中心となりつつある。
数年前までは、このふたりに音声担当が同行することが多かったのだが、
今では音声担当がいることの方が珍しくなってしまった。

音声担当がいないからといって、音を録らないと番組にはならない。
誰が録るのか? その役を担わされるのは、カメラマン。

カメラをセッティングしながら、取材対象者やタレントに小さなピンマイクをつける。
ガムテープを、粘着面を表に三角形にし、ピンマイクをくっつけ、
対象者の衣服の中に外から見えないように貼り付ける。
よく女性レポーターなどが腰からぶらさげてる装置を取材対象者の腰にくっつけ、
そこから飛んでくる電波をカメラ側でキャッチ。
イヤホンで飛んでくる音を聞きながら、カメラを回すのだ。

数年前と比べると、完全にひとり、スタッフが減っている。
その分、カメラマンの仕事が増えていることになる。
録りながら、撮る。聖徳太子みたいな芸当を強いられているワケだ。

映像の責任にプラスして、音の責任もとらされるカメラマン。
会社側はカメラマンに音声担当者分の給料を払っているのだろうか?

音の問題は、実は深刻だ。
先日、東京のスタジオで音を整えるMA作業に立ち合った。
整音しながら、スタジオのスタッフはこう言った。

「また、音がめちゃくちゃだなぁ」

高低大小をはじめ、音の録り方がてんでなってないと言うのだ。
そう言われるのは初めてじゃない。と、言うより、最近はいつも同じことを指摘されている。
編集するときには一切、手を加えずに、そのままの音を持ってこいとも言われる。
MAスタジオでイチから整音しないと使えないということなのだ。

MAスタジオのスタッフは音のプロだから、音声担当抜きにした取材自体、ガマンがならないらしい。
「音をナメてるのか?!」というわけだ。
その怒りは当然だ。カメラマンが音を録れるからといって、専門じゃない。
やらねばならないからやっている。それが現実なのだから。

カメラマンは映像に全力を注ぎたいし、注がねばならない。それがカメラマンの使命。
音声担当がいたらどれだけ安心か。その思いは、ディレクターも同じだ。

しかし、経費削減は容赦ない。機材の性能はどんどん良くなるから、
ディレクターが、カメラも、音声も、編集も、すべてをひとりでまかなう日も目前だ。

一方、テレビは、高画質高音質を誇るデジタル放送と変わっていく。
奇妙な話だ。
たとえどんなに器機が高性能になっても、絵を撮り、音を録る、
その映像制作現場のレベルが下がれば、テレビ側の高性能はなんの意味も持たない。

「できますよ、いろんなことができますよ」と吹聴したところで、
現場をないがしろにして何が高性能か、多機能か。

高性能のテレビで悪い音を聞かされながら、

「デジタルは、やっぱ違うねぇ」

なんて言うような視聴者にはなりたくないし、
視聴者にそんな幻想を抱かせるような番組を作りたくはない。

だが、日々、そんな番組を作っているのが現実。

早いうちに、制作側がしっぺ返しを食らえばいいのだ。





ロケ、唯一のおみやげ。
浦安の埋め立て地にあったちっちゃな公園で拾ったどんぐり。

トトロの忘れ物?





千葉浦安・東京出張のある一日、ぽっかり時間が空いた。
学生時代を過ごした街へ。

JRで高田馬場へ。この駅に降りるのは20年ぶりくらいかな。
四角い建物「BIG BOX」。その入り口で人待ち顔にたむろする若者たち。昔のままだ。

まず、よく行ったジャズ喫茶「マイルストーン」を訪ねる。
店は今もあった。でも、あいにく定休日。窓から覗くと、コーヒーサイホンが見えた。学生時代よりも、先が見えないプータローのころ、よく来た。コーヒー一杯で半日、これから、なにを、どうすればいいのか、ぼんやり考えた。
そのとき考えたような人生には、結局ならなかったけど。

裏通りを歩いていると、歓声が聞こえる。幼稚園の運動会だ。

父兄の方が多いかも。


アンツーカーの上で、お父さんたちがなにやら興じていた。園児は休憩の時間かな? 初めて上京したとき、運動場が土じゃないのに驚いた。かわいそうにと思ったっけ。


早稲田通りを大学方面へ。
道の向こうの映画館。ここで寅さん3本立てなんかをよく見たなぁ。500円、いや、300円くらいだっけね、幻ちゃん?

場末の雰囲気はそのまんま。



学生街の喫茶店「シェ・ヌー」(だっけ? おい、S)も健在。入ってアイス・コーヒーを注文。あのころから、ぼくはホットコーヒーが苦手だ。

変わらぬ佇まい。


店の奥。窓に面したあのテーブルに座ってた。高校、大学と同じだったSとその友人たちは、あの席で、よく演劇論をぶっていた。青臭く、でも、懸命な会話だった。

幻影が見える・・・・。







大学に近づくと、古本屋が増えてくる。このあたりまで下宿から10分ほど。暇に任せて、結構通った。あんまり本は買わなかったけれど。

ビルになっている店も。


この書棚を眺めながら、忍び寄る焦りを感じていた。どこに手を伸ばせばいいのかわからない。それは書籍に対してだけじゃなく、自分が歩む方向に対してでもあった。

居並ぶ本は変わらない。


古本屋の前にある“一冊100円”の台の下でネコが昼寝。いいなぁ、この感じ。古本屋になりたいとチラと思ったこともあったっけ。そのときの理想は、この雰囲気だ。
我が家のネコ助は元気かな。

ぐっすり、すやすや。






大学の裏口へ向かう路地があるあたり。しかし、どこやら、さっぱりわからない。

どこじゃ、ここ?


このあたりに大学イモを売る小さな店があったはず。それも今はなく、大きな通りがズドンと貫いている。
巨人の松本や阪神の岡田が練習をしていた球場も取り壊され、巨大な図書館が建っていた。

しかし、路地に入ると、そこは四半世紀前のまま。通りの古本屋には、ぼくらのころ同様、教科書がわんさと並んでいた。教授たちのふところは、今もふくらまないんだろうなぁ、きっと。

土曜日。学生の姿ナシ。



坪内逍遙記念館。演劇博物館が正式名称かな? 美しい外観、しかし、学生時代は一度も入らず。卒業してから、仕事で何度か訪れた。

一見の価値はアリ。



キャンパスの雰囲気は今も好き。今は大きなビルに変わってしまった建物も多いけど、ぼくらが主に授業を受けたところは変わっていない。

ここで受けていたゼミがあまりに面白くないので、途中で「やめます」と言ったら、教授が「君のような学生は初めてだ!」と激怒したのを思い出す。若気の至りです。すみません。

繁る木々。気分が落ち着く。


しかし、小ぎれいになったなぁ。正門前の広場にも、立て看板がまるでない。あのころは、革マルだ、民青だとかしましく、キャンパスは立て看板が林立していた。

ぼくが通う学部は学生運動が激しく、定期の試験がたびたびレポートに変わった。それを喜ぶヤツもいたけれど、ぼくにとっては大迷惑。試験は、できようができまいが、時間が来れば終わる。潔い。でも、レポートはイヤでも書かねばならない。のたうち回る。

ゴミひとつ落ちてない…。



正門のそばにあった建物も取り壊され、新しく建築中。まか不思議な“緑色のカレー”があったのは、この地下じゃないだろうか? 確か100円。今まで、あれほどまずいカレーに出会ったことはない。ここには、いろんなサークルの部室もあったはずだが・・・・・・。

幻ちゃん、部室が消えたぞ!


大学ご自慢の庭園には巨大なホテルが。ぼくが在学中から、この庭園を含めキャンパスの大部分が某大学の借金のカタに、抵当に入っているというウワサがあった。ウワサだったのか真実だったのかは知らないけれど、大学も経営に力を入れなければやっていけない時代になったのは事実だ。

昔を知る身には不自然な光景。






都電「学習院下」の駅。都内で一本だけ残っている都電は、きっと消えることはないだろう。初めて乗ったとき、運賃は50円。あぁ、いにしえの感、大なり。

「学習院下」駅。


相変わらずかわいい外観。



都電が走る道に面して「面影橋」がある。昔は情緒があった場所なんだろうが、今や単なる鉄の橋。名曲『面影橋』の面影もない。

神田川に架かる面影橋


しっかり「面影橋」のプレートが。






大学の正門から、ぼくの下宿まで徒歩5、6分。途中で神田川を渡る。護岸工事がされ、両岸には緑が植えられ、様変わり。でも、きれいな川じゃないな、やっぱり。かぐや姫の『神田川』のイメージとはほど遠い。
面影橋から下ること二本目。この橋から、流れる川面を見つめた。

♪あなたは もう 忘れたかしら~♪


『神田川』の歌詞そのまま(赤い手ぬぐいをマフラーにはしなかったけど)に、銭湯健在。この銭湯に、ぼくは10年、通った。毎日、入りはしなかったけど。

大学入学当時は90円台だった銭湯代。それがいきなり倍となり、卒業のころは300円近くになっていた。今はいくらするんだろう?

コインランドリーもそのまま。



ぼくは“豊荘”という、いかにもという名の、木造モルタル二階建てのアパートに住んでいた。流し付き、トイレ共同の四畳半。5、6年前までは確かに建っていたのだが、一軒家に変わっていた。

茶色の建物が元“豊荘”



学生時代を含めて8年間、住んでいた四畳半。そこを去るとき、ぼくは短い文を書き、部屋の天井近くに隠した。その文章は、今も覚えている。

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 今、ぼくを取り巻いている思い出を心の奥底に『想い出』として静かに横たえるために、
 そして、ここちよい『過去』とするために、この部屋をあとにしようと思います。
 もう二度と戻ることはないでしょうこの部屋も、
 ぼくのたった27年の人生の4分の1以上を占める偉大な空間でした。
 そこで出会い、笑い、泣き、格闘した数々の記憶は今のぼくのすべてです。
 これからのぼくは、何を得ようともこの部屋でぼくの心に染み付いた
 『自分』以外のものになることはできません。
 それは、ぼくにとってすばらしいことでもあり、悲しいことにも違いありません。
 すべてに『ありがとう』と『またいつか』という言葉を投げながら、
 『偉大な空間』をあとにすることが今の僕に与えられた誇るべき権利であり、レクイエムでもあるのです。

    ありがとう       またいつか

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確か、こんな感じ。
これを書いたぼくのアタマの中には、『男おいどん』(松本零士作)のラスト、おいどんが大四畳半を出て行く姿があった。この文を記したあの紙切れも、アパート解体と同時にこの世から去っていったんだろう。

少し感傷的になっていたら、新しい一軒家の隣に、“豊荘”の半分が切り取られたように残っているのに気がついた。そう言えば、ぼくがいるころから、L字形のアパートは途中で仕切られ、互いに行き来するには一度外へ出ないといけないのだった。

一軒家を回ってみるとその奥に、L字形だった“豊荘”の半分が見えた。ぼくの部屋は新しい建物に変わっていたが、友人のSが住んでいた部屋は、ぼくが引っ越したときそのままに残っていた。

おい、S! お前の部屋、あったぞ!

奥の2階がSの部屋だった。



今も誰か住んでいるのだろうか?





秋の一日、プチ・センチメンタル・ジャーニー。
きっともう、訪ねることはないだろう。

サヨナラ、だな、今度こそ。

土砂降り台風の中、簡易クレーンを組み立てたり、
シーンを削りつつの撮影でストーリーのつながりが不安になったり。
いろんなことがあったけど、結構楽しかった。
どんな風に撮影されたのかは見てないけれど、撮影現場の主役はカメラマン。
彼が「ヨシ!」と思えば、そのカットが一番だ。
しかし、音声担当が同行しないのはやっぱりおかしい。
その役割はカメラマンが負わねばならない。負担が増えるばかりだ。
来週の第二段は、ニューカレドニアへ一週間。結局、ぼくも行くことに。
さてさて、どうなることやら。
今日はナレ録り。
10:15。四谷のスタジオに行くと、入口にマネージャーが!
朝から仕事なので11時過ぎから、と聞いていた。ビックリ。
聞くと予定より早く収録がすんだとのこと。
台風が来たり、他のロケが押して撮影できなかったり・・、
ホントに見通しが立たない業界だこと。
今回、ナレーションをお願いしたのは泉谷しげるさん。
番組は沖縄の漁師が主人公。男くさいがどこか優しい声がいいなぁと泉谷さんに依頼。
ナレーションは本職じゃないからと何度もやり直しもしてくれた。ディレクター共々大感激。
出来も上々だ!
今日はナレーション収録日。
ところが、タレントさんの他の仕事が押して今日はムリ。明日、収録することに。
ぽっかり、一日空いてしまった。
11時すぎ、ホテルを出る。天気は上々。さぁ、どこへ行こうか・・。

結局、学生時代のアパートがどうなっているか、見に行くことに。
学生時代+結婚するまで住んでいた木造四畳半は、一個建てに変わっていた。
が、なぜかアパートの半分は、ボロボロの姿で残っている。
もう誰も住んでいない、ツタがからんだ廃屋。
ぼくの遥かな想い出が静かに佇んでいる。そんな気がした。

AM9:30 ホテル出発。
埋立で広がった浦安は平坦な街。あっという間に目的地へ。
二日酔いのディレクターにインタビュー取材を任せ、住宅街をぶらぶら。
しかし、平日の10時前にいい歳のおやぢがウロウロするのは気がひける。

PM2:00
浦安を離れ、外交史料館へ。
高速に乗ったことも知らず眠りこけ、気がついたら東京タワーが目前に見えた。

PM7:15
帰郷するスタッフと別れ、西新宿のホテルへ。
他の番組のナレーション収録がたまたま明日、東京のスタジオである。その立ち合い。
ひとりになると、やっぱり寂しいな。
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