番組構成師 [ izumatsu ] の部屋


久しぶりに朝のワイドショーを、局を変えながら流し見る。ナレーションの言葉が気にかかる。

事件の裏側や真相の究明と言いながら、「○○は△△だと言う」という語尾のナレーションのオンパレード。耳障りでしょうがない。ちょっと注意して聞いていたら、ひとつの出来事を知らせるナレーションのほとんどが「○○は△△だと言う」という語尾。こりゃ「だと言う症候群」じゃなかろうか。

「テレビ局は本当にきちんとした取材をしているのか?」と友人に尋ねられたことがあるけれど、こんなナレーションの言い回しではそう疑問符がつけられても仕方ないなぁ。

曖昧な言葉で語尾を濁すナレーションがここ数年、増えてきているように感じる。それは、断定するだけの裏付けや確信がないということもあるだろうけど、曖昧にすることで視聴者の興味をあおる狙いもあるに違いない。

また視聴者の方も、「○○だ」と断定されるより、曖昧にぼかしてくれ、意味深にしてくれた方が見ていておもしろいということもあるだろう。結局、野次馬なのだから、視聴者は。

それにしても、ジャーナリズムの一翼をになうはずのテレビが、視聴率を上げ、視聴者の興味を喚起するのが目的のワイドショートはいえ、あからさまに「伝聞ですよ」という表現を多用するのはどうなのかなぁ。「事件」を扱っている以上、「だと言う症候群」はアカンのじゃなかろうか。

「○○は△△だと言う」と伝えたとしても、「○○」が「△△」じゃなかったとしてもテレビは責任をとらないし、こうした表現をするのは責任をとらないための布石のようにもとれる。なんとかして視聴者の興味を呼び起こしたいという気持ちはわかるけど、自分で自分の首を絞めるような言い回しじゃないいかしらん。


ぼくはナレーションを書くとき、極力使わないように心がけている表現がいくつかある。この「△△だと言う(だと思います)」もそのひとつ。きちんと取材し、きちんと裏付けがあるならば、この語尾を使って内容を曖昧化する必要はまったくないと思うし、してはいけないことだと思うから。

テレビを見ていると「○○かもしれません」という表現も多用されている。余韻がほしいのだろうと思うけど、ぼくはこの言葉をほとんどに使わない。事実を元に組み上げていくドキュメンタリーでは、ナレーションで余韻を作る必要はないと思うから。余韻が欲しいのならば、それは映像で作り、見せるべきだとぼくは思っている。

「ナレーションで盛り上げてくれよ。とくにエンディングをさ」

こんな意味のことを時々言われる。でも、ぼくが書くナレーションはクライマックスを飾る麗々たる言葉で埋められたりはしない。それは筆力&語彙不足というのが主な理由だけど、ヘタクソな散文詩のようなナレーションで盛り上げても意味がないと思っているからでもある。

テレビは映像と音(ナレーションではなく、インタビューまたは「ノイズ」と呼ぶ取材時に収録された音)が命。盛り上げるのは映像と音でやるべきで、ナレーションだけエスカレートしても何の意味もない。言葉が空虚に空回りするだけだ。

扇動するのはやめて欲しいな。


しかし、番組、特にドキュメンタリーにとってナレーターの力量はとても大切。番組の色というか、テンポ、イメージを決定的に決めるのは、番組の冒頭から流れるナレーションだ。その声質やトーンによって、番組の空気感がまったく変わってしまう。

ある局のディレクターが「予算があったら、まずナレーターに金を割きたい」と言っていたけど、当然だと思う。ぼくがディレクターだったとしても、同じことを思うだろう。現在は、その予算はどんどん削られているのが現状だけど。


なんにしても、「だと言う症候群」はジャーナリズムとしてのテレビの存在感を自らおとしめている。ぼくの友人知人は「テレビはジャーナリズムではあり得ないという」連中が多いけど、「○○は△△だと言う」の繰り返しを聞いていると、友人知人に反論のしようがないなぁと思ってしまう。


曖昧さって、言う方も聞く方も、心地いいのかもしれないないな。


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