番組構成師 [ izumatsu ] の部屋

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まだまだ続くテープ起こし。指先がじ~ん…としとります。

ぼくはワードにATOKを入れ込んで使っているのだけれど、こいつが賢すぎてときに先回りをするからうっとうしいことが多々あり。

たとえば「少年」と入力すると、「少年よ大志を抱け」と変換候補が出る。そんなもん、出さんちゃよかとに、うっとうしかっ!

ぼくはローマ字入力なので、正確に言うと「syoune」まで入力すると「大志を抱け」となってしまう。

それを無視して「少年お」=「syounenno」と入力すると、「少年老い易く学成り難し」と先回り。便利なのか、利用者をバカモノ扱いにしているのか…。格言変換とでもいうのかなぁ。

試しに「こういんや」=「kouinnya」と入れると、「光陰矢のごとし」。

やっぱりね・・・・


でも、ワードにくっついてくるFEP(だっけかな?)に比べると、やはりATOKは賢い。ぼくはことワープロに関しては国粋主義者である。なんでみんな、何の疑問も抱かずにマイクロソフトが勝手に、かつ強引に、メーカーにつけさせている「ワード」なんぞを使うんだろう。

「ワード」はアメリカ人が使うのに便利なようにできているに違いない。罫線なんか引くのが大変じゃ。いつぞやには、アメリカには罫線という概念がないと聞いたことがある。ホントかどうか知らないけれど、「ワード」の罫線機能は額に青筋が立ちそうなくらいに使いにくい。

無批判に「ワード」を使っている人たちによく見られる現象。それは、ページをふらないこと。「ワード」で制作された10数枚の資料をプリンタで打ち出して、あららドサッ、と落としたら、順番にもどすのが大変で…。

これも、購入したまま状態では、「ワード」はページを打つような設定になっていないからだろう。おかしいとか、不便だとか、ページも打たない資料を他人に送ったら失礼だとか、だ~れも思わんのかなぁ…。

「エクセル」使用者はもっとひどい。マス目に入った文字が表示&プリントできないものがじゃかすか送ってくる。まったくも~。


やめよ。時間のムダ。

初代「一太郎」から使っていて、できれば今も「一太郎」を希求しているぼくだけど、周囲の圧倒的物量の前に、「ワード」に白旗を揚げたんですもん。

今や、ATOKは使えども、「一太郎」はまったく使わない。

徳島県というローカルから、一時は日本の業務ソフト界を席巻したジャストシステム。だいじょうぶかなぁ。

日本語ワープロの砦を守れっ、がんばれ~!(って、使ってないのに説得力ないな)。


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テープ起こしが続く。

内容は面白いけど、めんどくさかぁ。物理的に時間がかかるのがどうもねぇ。

それに、音楽聞きながらとか、映画を見ながらとか、「ながら仕事」ができないしぃ。
音楽、聞きながらやれたら、もっとずんずんはかどるのになぁ。


ここんとこ、ちょっと貯まって(溜まって、かな?)しまってる。

お仕事「A」が、40分テープが33本だから、ざっと1300分、22時間くらい。内容的には、自然物。なかなか興味深い内容。

お仕事「B」は、取材期間が長い。その多量の取材テープからディレクター氏が抜粋し、DVDにダビングして、2枚、また3枚と送ってくる。内容的には、スポーツ物。経験豊富な一流選手の言葉は意味深い。

だがしかし、お仕事「A」の方がオンエアが先&番組の正味時間が長いので、お仕事「B」は、申し訳ないけどストップ中。今、DVDが5枚、机の上に貯まってる。

申しわけなかし、遅れるとコワか~。もう一方を見終わるまで、もうちょっと、あと一日ほど待ってくだしゃい。

22時間くらいあるお仕事「A」の取材テープは、パソコンに詳しい局の編集マンがデータを圧縮してDVD二枚に入れ込んでくれた。それをデスクトップとノートパソコンに丸ごとコピー。これでお仕事、どこでもできるどぉ。

ありがたか~。

だがしかし、便利になるということは、忙しくなるということで…。
言い逃れがしにくくなったなぁ。

「いつでも、どこでも、できるじゃん」と言われたりすると反論しがたい。手紙の時代には気を抜く時間もあったのだけど、それが打つ前に響くようなメールとなると、四六時中、切羽詰まった感じがして心が安まらん。

いずれパソコンを通して映像データをやりとりするようになるんだろうなぁ。
考えたくなか…。


インタビューなどを書き起こすには、どんなに短く見積もってもその時間のざっと3倍はかかるから、お仕事「A」は66時間、かかることになる。

なんだ、二日と18時間じゃん。

だがしかし、計算するほどにうまくは行かないのよね~。目玉も指も、連続使用に耐えないしぃ。
一日、8時間労働として・・・9日目には終わるかな。

なんて時間を与えてはもらえないのは、下請けの常でして…。
あぁ、四六時中、のんびり、ゆったり、まったり、しっとり、ごろごろ、でれでれ、クークー、グースカしたか~。


などと思いつつ、きょうもテープ起こしに突入じゃ。



家の近くをてれてれ歩いていたら、塀の上にニャン助が。

ちちちち…と近づいて行っても全然平気。このあたりはノラが多いけど、あんたは飼い猫?

携帯を出してパシャッとやっても、やっぱり平気。しっかり、カメラ目線をくれた。

ちち…と、さらに近づくと、こちらを見下げながらあんぐり大口開けてアクビした。

あんた、タダ者じゃナカね?


しばらく見上げて、見つめ合い、ほんじゃまたねとさよなら。

ふと振り向くと、なにやらにまにま笑ってる。チェシャ猫みたいに、笑顔を残して消えるのかい?

じ~~~~~~~~~っ…。

きょうは消えませんねぇ。

ここのところ、テープ起こしの作業が続く。

以前は取材テープをダビングしたVHSテープを送ってくれる局が多かったのだけれど、昨年あたりからDVDに落とす局が多くなってきた。

業務用のVHSビデオは驚嘆するほどに高いので、一般ユーザー向けのビデオを使っていたのだけど、性能はやはり“それなり”。止めたいところでキチッと止まらない。シュルシュルと少し通り過ぎる。戻そうとすると、シュルシュル、戻り過ぎ。んで、進ませるとまたシュルシュル…を繰り返し、あげくの果てはテープを巻き込んで固定化したり。

そんなこんなでアタマに来ることが多かったけれど、DVDになるとラク。パソコンの右上に表示したまま仕事ができるのが嬉しい。便利になったな~と思うけど、ダビングする方はテープ→DVDだから、まだ実時間がかかるので大変だ。

テープ起こしは番組作りの基礎の基礎。ぼくは取材対象をテープ起こしをすることで知る。直接会うことはまずない。会って情が入ると、思い入れがディレクターと同じになってマズイし。構成係は第三者じゃないとアカンと思ってる。でないと冷徹になり切れないし。

基礎の基礎のテープ起こしだけど、きちんとやらないディレクターが増えている気がする。以前は自分が撮った映像(インタビューも含めて)をすべて書き起こしていたカメラマンもいた。書き起こすことで取材対象の思いもわかるし、ディレクターの狙いもわかってくるから、次回の取材時にはどんな映像を撮ればいいかもわかる。

今の制作現場は、カメラマンがそんなことをする余裕がないのかな。ディレクターもやらないくらいだから。

取材に行って、まずはカメラを回せるだけ回す。そんな取材方法を取る制作陣が増えた。カメラマンは何のためにこの映像を撮っているかを理解しないまま、ただ回す。取材に行く毎にカメラマンが変わるようなことも多くなったし。そうなると、“回すだけ”以上のことを期待する方がムリなのかも。

ぼくはテープを書き起こした分をディレクターに送る。同じモノを持っていてもらった方が仕事がしやすいから。それはこの仕事をはじめた時からずっとそう。

驚いたことが一回。某局で仕事をした時、同じ分数、同内容の番組でギャラが半分だったことがある。「?」と思う間もなく、プロデューサーが「今回はウチのディレクターがテープ起こしをしましたから」だって。つまり、彼にとっては、ぼくの仕事は“テープ起こし”がその半分を占めているということなのだった。

結構、驚いた。

テープ起こしは基礎の基礎。本来はディレクターが自ら起こし、ぼくらスタッフに渡すべき性格のモノ。やって当たり前、そこから編集室での番組作りがスタートする。ぼくが起こしたモノをディレクターに渡すのは単なる“サービス”に過ぎない。渡す義理など、ほんとはないのだ。

それが「ディレクターがテープを起こした」から、構成係のギャラを半分にするという思考ってのはびっくりものだなぁ。誰がやるべき仕事なのかをプロデューサーもわかってないってことだから。

そんな考えだからだろうなぁ。いざ編集になると、「どこにどんな映像がある」とか「こんなインタビューもある」ということをディレクターよりもぼくの方が知っていることが多いのは。

まずいんだけどな、それって。

どんなに立派な構想をしても、素材は取材テープしかない。それを組み上げていくことでしか、番組はできないのは厳然たる事実。でも、せっかく苦労して取材してきたテープをなめるほどに見切っているディレクターがガックリ減った。

自分が撮ってきたモノなのに、大事にしないね。
みんな、忙しいんだろうなぁ。


さてさて、きょうも取材テープがダビングされたDVDを見ますかね。結構、おもしろく、興味深い内容だから、見ていて飽きない。カメラマンがディレクターを兼ねているけど、その人の思い入れが強いからだろうな、やっぱし。


思い入れのない番組は、素材を見てもすぐわかる。
取材対象に失礼だよね。



土曜の昼に友人ふたり、RとSとが車でやってきて、相も変わらぬバカ話。

ちょうどカゼひき婆さんと化していたお袋は、この元悪童どもの話が大好き。フトンにゴロゴロしながら、クッションに身をゆだねながら楽しそうに聞いていた。

Rは、ぼくの中学時代の同級生。
Sは、ぼくの高校時代の同級生。
RとSは、予備校時代の同級生。

文字にするとなんとなくわかるけど、言葉で説明するとよくわからん関係。年齢も微妙に違ったりするもんだから、

「なんで、あんたたち、仲間なん?」

とでも尋ねられると説明がめんどくさい。
まぁ、友だち関係が30年以上続いているということで許してもらおう。

土曜日。RとSは、Sの姉のところへ不要になったベッドを引き取りに行った帰りに、我が家へと寄ってくれた。3人揃って会うのは久々なので、ベッドを積んだSの車でまずはSの実家へ。

その昔、Sの実家は「ボタ山の中腹にある広~い屋敷」といった風情だったのだけど、周囲の変わりようと言ったらなくて、どこの道から入ればいいのかさっぱりワカラン。

「ここはどこ? 私はだれ?」

と、ボケている間に実家へ到着。

分解され、車に乗せられていたベッドをSの実家へと運び込み、合体。シングル・ベッドのできあがり。Sのお父さんが昼寝に使うのかなぁ。

彼の家には高校時代から浪人時代にかけてよく通った。この日、ベッドを入れた部屋が当時はSの部屋で、五輪真弓の「煙草のけむり」を聞いた覚えがなぜかものすごく鮮明に残ってる。

それと、覚えているのは今や鹿児島で郵便局長となっている高校の同級生が、サンダル履きで走り回った足をガラスかなにかで切ったときのこと。縁側に寝ころび、足を血だらけにして痛がりながら、笑っていた。

さらには、この日はいなかった友人Cが10代の娘っ子と結婚するということとなったときのこと。

「反対はせんけど、はたちくらいまで待ってやれよ」

と、説得に当たったのがこの家の台所。

Cは言った。

「これまでは友だちが一番大切やったけど、これからはあいつが一番」

よ~言うた。そこまで言うんやったらエエやろ。一緒になりやい、祝福するけん。
でも、すぐに別れたね。どっちもあまりに幼かったもん、やっぱし。

なんてことを思い出しながら、RとSとぼくと3人で、近くの街に飲みに出る。


Sとぼくとは大学も同じで、下宿したアパートもこれまた同じ。でもそれは友情のあまりに示し合わせたワケじゃなく、ある日、アパートの窓を開けたら、斜め向かいの部屋にSの顔があったのだった。

「なんでお前がそこにおるんや?」

てなもんだ。

Rは京都の学校へ進んだのだけど、仕送りゼロの、言ってみれば苦学生。学んでないので、正確にはどう表現すればいいのかは悩むけど。

だから彼は、春や夏の長い休みごとに上京してきて、ぼくの部屋やSの部屋をねじろに肉体労働に精を出した。

彼は年寄りウケが抜群にいい男で、ぼくが帰省している夏の間、ずっとぼくの部屋にいたときには、一階に住む大家のおばあちゃんが下から二階の部屋に向かって、

「Rさん、Rさ~ん、お茶が入りましたよ」

と、お茶に誘うほどだった。
Rの代わりに、本来の住人であるぼくが窓からひょいと顔を出すと、

「あら、Mさん、いつ戻られたんですか?」

ちょっと悲しかったっけ。


土曜の夜は遅くまで飲み、豚骨ラーメンを最後にSの家へ。人には語れぬ、しかし、S本人はどんどん語る、哀しくもどこか滑稽な事情があって、彼の家は空いてる部屋がいっぱい。でも、歯を磨いていた末っ子を尻目に、酔っぱらいオヤジ3人は、シャツとパンツでリビングでゴロゴロごろ寝。

お子さまの教育には、よろしくないに違いない。
ま、反面教師っていうこともあるしね。


翌朝、と言ってもお昼を回っていたけれど、Rは現在の住み家・関西地方へと帰るために高速バスで空港へ。

ぼくは近くのJRの駅へSの車で送ってもらう。

バイバイ、さよなら。たまには、飲もうや。





送ってもらった駅は、高校時代の馴染み駅。

ぼくが高校へ通っていたころは、この駅からさらに主に石炭を運ぶ線路が三駅分、延びていたけれど、とっくに廃線。レールが引かれていたあとは、広いバス道路に変わっていた。

でも、駅には遠いあのころの面影がある。


中間駅-02「中間駅」と申します。


中間駅-01駅舎の雰囲気は昔のまんま。


当時の通学列車は、SL=蒸気機関車(D51=デコイチ)。開けっ放しのデッキに座っていて、ポイントを通るときの揺れで列車から落っこちた友だちを「だいじょうぶかいな?」と待ったのもこのホーム。

落っこちたヤツは「イテ~」とお尻をかきながら線路の真ん中を、足を引きずりつつ駆けてきた。走る列車から落ちて「イテ~」で済んだんだからヨシとしなきゃね。

そいつが、コワい学校の生徒さんたちから「金、貸せ」と言われ、「貸しちゃぁけど、いつ、返してくれるん?」と尋ねて、「お前、ナメとんのか!」とシバかれたのも、このホーム。

なにがあっても、ちびまる子ちゃんの「山田」みたいに、エヘヘと笑ってたっけな。あいつはどこでなにをやっているやら。どこかの山持ちの家へと逆玉の輿に乗って行ったというウワサを聞いたけど。


中間駅-03SLの頃、駅舎に緑はなかった。


中間駅-04レールの先に、今も母校が。


ぼくは学校が大好きで、当時の国鉄がゼネストをやり、このレールを列車が走らなかった日も、線路沿いの道を自転車のペダルを踏みつつ登校した。もちろん、勉強をしに行くはずもなく、ゼネストのため生徒がまばらなグラウンドでバレーボールやサッカーをやるためだった。

校舎の屋上で、だらりだらりと過ごすためでもあった。RCの「トランジスタラジオ」のようには、タバコの煙りが青くなかったけど。あのころ、屋上でタバコをふかしているヤツはいなかったんじゃないかなぁ。トイレとか、教室の後ろとかだった気がする。

教室の壁の節穴にきちんと消えていない吸い殻を放り込んだヤツがいて、授業中に煙がモクモクあがりはじめたときはかなり驚いた。かわいそうに先生は「お前たち、頼むから火はちゃんと消してくれ」と懇願したっけ。

そんな問題じゃナカでしょが。

屋上でバレーボールをやってたらボールが下へと落ちていき、グラウンドでポーンと跳ねて校長室へ飛び込んだのはゼネストのときだったかなぁ?

叱られましたね、あれは。

受験直前にもバレーボールに興じていたら、校長先生が真っ赤な顔をして飛んできて、「お前ら! 今、どんなときだと思ってるんだ!!」と怒鳴られた。

しかし、「お前ら!」だもんね。
今の時代、校長先生がそんな言葉で生徒を頭ごなしに叱るかなぁ。

担任の先生はまたまたお気の毒に、校長先生からこってり絞られたようで、「お前たち、ちょっと控えちゃらんや」と言ったっけ。


ぼくももう、あのころの担任の先生の歳をはるかに越えた。

「お前たちにはほんに手を焼かされた」

学生時代、正月に遊びに行くたびにそう話しては嘆息していた担任の先生が60代の若さで世を去ってから、もう何年が経つだろう。

そうね、大変だったろうな、男子も女子も、そろいもそろってイタズラ小僧の巣窟みたいな高校だったから。

ちょっと、反省。

でも、ま、先生も嘆きつつ言ってくれたもんね。

「おとなしいだけより、悪そうの方がず~っとヨカ」

そのまんまってのも、マズいと思うけどね。



ネコ助はどうして袋状のモノが好きなんだろう?

そして、どうしてハナをひくひく、体でびくびくしながら、入ってみないと気がすまないのだろう?

怖いくせに。


かくれんぼ「ど~こだ」


もう見つかってるんだから、とっとと出てこい。
このまま持って出かけるどぉ。



きのうに引き続き、「集団自決」。

数年前、「集団自決」がらみの番組の制作に参加したことがある。沖縄、読谷村のチビチリガマで起きた「集団自決」。

ガマと呼ばれる自然洞に逃げ込んでいた住民たちは、海を埋め尽くしたアメリカ軍の艦船から兵隊たちが上陸してきたことを知り、パニックに陥る。

観念してガマを出ようと言う人たちと、辱めを受けるくらいならここで死のう主張する人たち。「男は皆殺しにされ、女は強姦されたうえにやはり殺される」。ここで自ら死ぬべきだと言う人たちの「根拠」はこれだった。

その「根拠」は、一部の日本兵が中国や東南アジアの占領地でやってきた行い。同じことをアメリカ兵もすると考えた。いや、鬼畜米英は日本兵など比べものにならないほどに劣悪非道だと信じていた。

「生きて虜囚の辱めを受けず」。捕虜になると殺されるのだ。辱めを受けた上で。ならば、日本人らしく死のう。

捕虜に危害を与えてはならないという国際法など、一般市民が知るよしもない。日本兵もそんな教育は受けてはいなかった。「生きて虜囚の辱めを受けず」。敵の手に墜ちるくらいなら、死を選ばねばならない。

ガマの入口からはアメリカの通訳が顔を覗かせ、水や食べ物を見せながら「出てこい、出てこい」と言っていた。でも、誰も信じなかった。捕虜になると殺されるのだ。

住民が潜んでいたのはチビチリガマだけではなかった。少し離れた別のガマでは「集団自決」は起こっていない。そこには英語を解し、アメリカを知る住民がいたから。「捕虜になっても殺されることはない」。その住民の説得で、そのガマに逃げ込んでいた人たちは命を長らえた。


書いてると気が滅入るな…。
チビチリガマでの出来事を知るには、下記が簡潔で分かりやすい。


  → 「沖縄・チビチリガマの“集団自決”」 (岩波ブックレット) 下嶋哲朗 著


番組の制作にあたっていたとき、戦後60年を経てなお、今も口を開かない体験者が数人いた。あまりの辛さに思い出せない。思い出せても、語ることができない。その、今もなお語れない人たちに向かって「(あなたの父や母や家族は)自分から望んで死んだんだよ」と言えるのだろうか?

チビチリガマの「集団自決」は、ガマの中にいたのが地元の住民だけという点で、何らかの形で日本兵がからんでいる沖縄の他の「集団自決」とは性格を異にするとされている。ここには直接的な「軍の命令」がないだけではなく、日本兵もいなかった。

だからと言って、「死んだ人たちは、みんな望んで死んだんだよ」と言えるのだろうか?

違うと思う。


どんな形の「集団自決」であれ、それが日本軍の強制や強要、命令等によるものであることは生き残った人の証言で明らかだ。それを「自発的行為」と呼ぶことができる人は、よほど強い意志の持ち主なのだろう。どんな苛酷な状況にあっても“自分”を見失わず、自分の行為を自分自身でコントロールできる人に違いない。


11日付けの琉球新報の社説に、ドイツの元大統領・ワイツゼッカーさんの言葉が出ていた。

「過去に目をつぶる者は過ちを繰り返してしまう危険がある」
「逆に、過去に対して目を見開く者は、将来に向け平和の証しを体現できる」


  → 琉球新報 2007.6.11 社説


過去に向き合うときにとるべき態度を示すこんな“当たり前”の言葉を、新聞の社説に見いだしてしまう現状って、いったい何だろう?

そして、その“当たり前”の言葉を、「あぁ、いい言葉だ」と思ってしまったぼくの思考回路は?


ますます気が滅入るな。


二日遅れの新聞が沖縄から届いた。

一面トップには、高校の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の関与が削除されたことに抗議する県民大会の様子。


教科書検定


 記事の内容はこちら → 「集団自決」軍命削除に抗議 (琉球新報 2007.6.10)


ある事実が「なかった」ということを証明するのは「あった」ということを証明するよりも難しい。作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島に取材し、「軍の命令」による「集団自決」はなかったと結論づけている。「集団自決」は住民の「自発的行為」だったというのだ。

興味深いのは曽野さんの著書を根拠に、「だから、集団自決に日本軍は関与していなかった」と結論づける(づけたがる)人がいること。

わからんなぁ、こういう結びつけができる思考回路って。

曽野さんの著書のタイトル『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった!』(長い…)に表れているように、曽野さんの検証は「渡嘉敷島では、集団自決の命令はなかった」ということ。その結論づけが正しいかどうかは(ムリヤリに)置いても、それが沖縄戦に普遍的に通じる事実ではない。

物書きとして、自分が明らかにしようとする出来事の舞台となった場所を丹念に歩いた曽野さんの姿勢は評価できるとしても、その検証内容から、沖縄戦全体の「集団自決」には「軍の命令」はなかった、と言い切れる人の心がわからない。沖縄では今でも「集団自決」の体験や思いを語る人がたくさんいるというのに。

そのたくさんの人たちに「日本軍が関与した集団自決はなかったよ」と文部科学省は言っている。「死んだのは自発的行為だったんだ」と。

その根拠ってなんなのだろう? 「日本軍の系統だった『集団自決命令』は発動されなかった」ということなのかなぁ。そういう明確な「軍命」はなかったんだ。あったというならその証拠を持ってこい、ってなもんなのだろうか? 敵の捕虜となるくらいなら死を選べという東条英機の『戦陣訓』の教えは、そのまま日本兵の住民への威圧的な態度となっていただろうに。

それはあくまで「命令」ではない、と言うのだろうか?


フタをしようとしても、事実は消えはしない。教科書に記載があろうがなかろうが、事実は消えないし、変わらない。興味を持ってそちらの方へちょっと歩めば、事実はおのずと見えてくる。

でも、沖縄ほどには、ぼくのまわりには動きなし。それがちょっと不安かな。




きょうは、なんと30度。
天気予報によれば、梅雨さなかの沖縄よりも7度も暑い。

通常、北部九州の暑さは、もんわり湿気を含んだ、ほんにいやらし気な暑さなのだけど、きょうは爽やかな風が吹き渡り、部屋の中にいるぶんにはなんとも心地よい。

このまま昼寝ができるといいのになぁ…。

が、そろそろ夏の準備をせねば。
しまい込んでいたTシャツ類、取り出してみると、なんとなく湿っぽい? からっ、すかっ、ぱりっという感じがナイのは着てみて不気味。

だもんで、洗濯第一弾。


TシャツTシャツ、総ざらい。


きょうの陽射しだとすぐに色あせるので、干すときはちゃんと裏返し。

乾け~かわけ~、はよ乾け~。

呪文を唱えつつ、あと2回は洗濯機が回るかな。
しかし、どのTシャツも同じサイズのはずなのだけど、吊してみるとデコボコがあるのはなぜ? クツのサイズもメーカーによっていろいろだけど、Tシャツにもサイズの規格ってないのかな?

夏も冬もTシャツにジーンズ姿。だけど、Tシャツにもジーンズにも、あんまり思い入れがない。気持ちよく着れればいいじゃん、てなもんで。

でもここ数年は沖縄の国際通りにある(他にも数店舗あるらしい)「 Habu - Box 」のTシャツがフェイバリット。愛らしくて、琉球ぽくって、さらには着やすい。でも、サイズが全体的に小さめかな? ぼくは別にデカくないのだけれど、Lサイズでも肩のあたりがちょっと窮屈。


 → 「 Habu - Box 」 Tシャツ通信販売


ネットで買えるとは・・・・うかつだった…って、今どき当たり前か。

前回、沖縄に行ったときも買いました。んで、愛用しとります。
次回もお店に行く時間があると嬉しいなぁ。



農道を走ると土の匂い。梅雨に入る前のこの時期、農土は眠りから目覚める。

早い田んぼでは、もう田植えが始まった。

この黄土色が、一面緑のさざ波にかわる日も近い。

緑が生まれる田舎はいいな。

こんな日には、ほんとにそう思う。

地元の駅前のビルにある寿司屋で打合せ。取材する側の思い入れについて話し込む。

今日、話したディレクターは元カメラマン。ローカル局は軒並み制作費削減という現実の中、自分で企画し、自らカメラを回し、編集もするという作業を続けている。

彼と仕事をさせてもらって思うのは「伝えたい」という思い入れ。

前回、一緒にやった時、「もうダメ。もう取材を続けられない」という切迫詰まった時が何回かあった。それを打開したのは彼の思い入れ。関係者に頭を下げてまわり、自分の思いを伝え、分かってもらう。

番組作りって、その繰り返しだ。

夜は尋常じゃなく遅くなる。友だちは減る。家族は心配し、しまいには怒り出す。体調は狂い、薬の世話になる。

プレッシャーは強い。でも、うまく行って当たり前。

そんな中、なんで番組なんか作る必要があるのか? 数えるほどの視聴者しかいないのに。

それは、やっぱり「思い入れ」。知って欲しいことがあるから、拒否されても対象へ近づく。伝えなきゃらないと思うから、体を酷使してチャンスをつかもうとする。その「思い入れ」の度合いに比例するように、番組の面白さ、興味深さは形作られていく。

そんなしんどい思いをしなくたっていいじゃない。同僚には、のほほんとノルマをこなして、私生活に没頭するヤツらもいるんだから。

でも、物作り屋のサガだよね。
「完成」って高みに上り詰めることなんかないんだから。

熱を込めた話、聞くのが辛かった。「制作者としての存在意義」なんて古色蒼然とした言葉、久々に聞いたよ。

そんなヤツと仕事するのは体力勝負だ。
行き倒れるかもしれない。あとは看取っておくれね

南の穏やかな街でのお仕事終了。

金曜日だからなのか、最終便が続くからなのか、搭乗口は人だらけ。その中、出発時刻になっても現れない客を呼び出すアナウンスがかりましい。

地上係員も客の名を呼びながら駆け回る。チェックインはしてるのに、どこにいるんだろうなぁ。不思議。

○○さ~ん、置いて行かれますよぉ。

なんて考えてるぼくも、アナウンスで呼ばれたことがあるのだった。搭乗口の真ん前のイスで眠りこけてた。

自分の名前の連呼で目覚めるってのは気持ち悪いもんだというのがよく分かったなぁ。

機内に入ったとき、乗客の皆さんの視線が痛かった。

きょうは大丈夫だな。あとな5分で搭乗だ。

旅に出ると遅寝遅起きになる。

たまにしか会わない人たちと一杯やる。これまた楽し。

ホテルに戻ると、アタマはすっきり。酔っているのになんでかな?

帰り道にコンビニで購入した旅先睡眠薬を読破。でも、寝れん~。

ひとり気分高揚。朝がきっと眠いなぁ。

きょうから南の穏やかな街へと巡業。着いてしまうと楽しいが、朝5時起きはやっぱり眠い。

ボ~ッと搭乗口に座っていると、アナウンスが。

「○○行き××便は本日、定員以上のご予約をいただいております」

ん?ぼくの乗る便だ。

「つきましては、△△行きの便にお振替いただけるお客様を募集しております」

はぁ??△△って、隣の県じゃん。空港は山の上でえらく不便なところだ。△△→○○って、かなり時間がかかるんじゃなかろうか?

「ご協力いただいたお客様には協力金1万円と7500マイルをご用意しております」

あな、珍妙な。
定員以上の客を集めておいて、搭乗直前になって全員に来てもらったら困るということなのかな? なんか、あまりにルーズじゃない?

「なお、本日は満席でございます」

そりゃそうだろう。定員以上の予約を受け入れて満席にならないんだったら、会社の存続も危うい。

このアナウンス、搭乗開始まで一回こっきりだった。協力金とサービスマイルで行き先を○○から△△へと変更した人はいたんだろうか? 立ち乗りしてる乗客は見当たらなかったけど。

でも、△△に行ってもいいかな、という思いがチラリと頭をかすめたね。仕事じゃなけりゃ、行っちゃうのにな。

ぼくが育った筑豊の炭坑街には在日韓国・朝鮮人の人たちがたくさんいた。「彼らは、なぜここにいるのか?」 そんな疑問を持ったのは高校に入ってからで、ガキの頃に一緒に遊んでいる分には、ただ単にはしゃぎ合う仲間であり、競い合うライバルであり、泣かし泣かされる間柄だった。

それでも、子どもたちの間にもどこかよそよそしい空気が流れる瞬間があることを体で知るようになり、ふと気づくと、おとなたちの間ではもっとはっきりとしたよそよそしさが感じ取れる時があることがわかるようになる。

不思議だった。さっきまで仲間だった相手を、軽い気持ちでぽーんと突き放すことができるなんて。それも、くもりガラスを爪でひっかくようなささくれた言葉で。その言葉は、子どもだからこその冷淡さで相手の心に突き刺さる。その突き刺さる音が聞こえるような気がした。

変だな、妙だなと思い始めたのは小学校の4、5年ころだろうか。仲良く遊んでいる、そのバランスが崩れると、友人たちはひとりの仲間を言葉でこづきまわし始める。その相手はいつも同じヤツだった。みんなに追従する係だったぼくは、変だな、妙だなと思いつつ、黙ってその様子を眺めていた。

その時のぼくの心は、オレもみんなと同じことをしなきゃダメだ!という声が大半を占めていた。そうしないと自分も同じ目にあうだろうという恐怖がどこかにあった。でも、変だな、妙だなという思いも確かにあって、声を出すこともなく、止めることもなく、ただ黙って眺めていた。

黙って眺めているなんてサイテーだな、今考えても。

ある時、お袋とふたりで、いつもこづきまわされるヤツの家の前を通りかかったことがある。ぼくはその家に住む友人が、みんなに言葉でこづきまわされる人間であることをお袋に知らせねばならないと思った。

なぜだろう?

見た目も言葉も仕草も、なんにもぼくらと変わらないのに、時にこづきまわされる友人がひとりいること、それがこの家に住んでいることを告げなくちゃならないと思った。

なぜだろう?

それは、口に出してはいけないことだ。やめとこう。そうも思った。
でも、ぼくは言った。

「この家のヤツ、○○人なんやて」

お袋は顔色を変え、ぼくの腕をギュッと引っ張り、強く、ひと言。

「そんなこと、言うんじゃありません!」

そして、彼の家の前をそのまま通り過ぎた。

ぼくは、変だな、妙だな、という自分の思いが受け入れられた気がしてホッとした。変だな、妙だなと思っていていいんだ、友人たちと同じ行動をとらなくてもいいんだ。そう言われたような気がして安堵した。

ぼくがお袋から強くたしなめられたのは、後にも先にもこのときの一回きり。お袋が日本が侵略していたころの朝鮮半島で生まれ育ったことを知ったのは、それからずっとあとのこと。

生まれ育った美しい山河や、ころころじゃれあい遊んだ友人たち。その懐かしいふるさとを日本人が蹂躙していた。自分は、ふるさとを、友人たちの心を、踏みにじったその日本人のひとり。そう気づいたとき、まだ年若いお袋の足元から大地が消えた。お袋は帰る場所を失った。


炭坑街・・・懐かしいまち。
ぼくの、後悔だらけのふるさとでもある。


夜、9時過ぎに携帯へTELあり。2年ほど前、一緒に番組を作ったディレクターだった。

元カメラマン。50代でディレクターへ転身したオヤジ・ディレクターで、カメラも自分でまわし、編集も自分でやるから、スタッフはほとんど彼ひとり。ぼくと合わせて100歳コンビ、あ~だこ~だとやりとりしつつその番組は楽しく仕上がった。

おじさん同士打ち上げの席で、「また一緒にやろうよ」と言ってからいつの間にやら丸2年。懐かしいなとひとしきり話をしたあと、「実は、また一緒にやれそうな雰囲気に」と電話の用件を切り出した。

制作現場っていうのは上に立つ人の考え方によってコロコロ変わる。ぼくのような外部の人間を入れてもOKよ、という人が制作の現場を仕切ると、そういう人は大体行け行けドンドン的な人なので、現場にも活気が出るし、会社の組織力学に無頓着な外部の声も入るので、できる番組もより面白くなる(欲目かな? でも、こう思ってないとフリーなんてやっとれん)。

それに対し、「社内の人間だけでできるのに、なんで外部のヤツを入れる必要があんねん?」的な考え方の人が現場の責任者の座に座ると、総じて現場のダイナミックさがなくなる。

もちろん、例外もある。自社のスタッフで固めて、外部の人間を一切入れず、なおかついい番組を作り続けている局もある。そういう局はチェック機能(番組作りを知らない上司が勝手なことを言うのとは違う)がきちんとしていて、現場の人間が自然と鍛えられるようなシステムになっていたりする。

大したもんだと思うけど、そういう局も実はディレクターは子会社からの出向という形だったり、カメラマンも子会社に所属、またはフリーや契約だったりする。純然たる「自社制作番組」なんてあるんかね?というのが現状だ。

久しぶりに電話をくれたオヤジ・ディレクターは「一緒にやれそうな雰囲気に」と言ったけど、それは現場を仕切る偉い人が異動でかわったという意味だった。前任者は「なんで外部を使うねん。外払いが増えるやんか」という考え方をする人だったようで、ディレクターはひとりで煮詰まりつつの番組作りを強いられていた。

外払いを減らすというのは経営側の管理職としては正しい選択だろう。社内スタッフ(厳密には他社の社員だけど)で完結すれば余計な経費もかからないから社内的なウケもいいだろう。でも、時には外の風に吹かれたり、耳に痛い意見を聞いたりしないと、制作力って低下する一方だと思う。

現場のディレクターの考え方はいろいろ。一から十まで自分でやりたい人もいれば、違った視点を入れながら修正しつつ作り上げたい人もいる。

オヤジ・ディレクターは上司がかわり、「一緒にやれそうな雰囲気に」なったと思った時、ぼくに電話をくれた。嬉しいね。まだ一緒にやれるかどうかはわからないけど、やるからには楽しいものにしたいな。




今年の3月に『そして うたが生まれた~BEGINからの贈物~』 という番組の制作に参加した。そのときは30分番組だったのだけど、5月末に1時間番組として再構成され、オンエアされた(沖縄だけでだけど・・・他県に住む人にこそ見て欲しいのにぃ~、って毎日同じことを書きそうだからやめよ)。

BEGIN、特にボーカルの比嘉栄昇さんを中心に立ちあがった「おきなわのホームソング・プロジェクト」。沖縄の子どもたちに新しい歌をプレゼントしようというその発想がどのように生まれたかはこちら(→ 2007.03.09 の日記)を読んでいただくとして、この4月から毎月1曲ずつ生まれている「おきなわのホームソング」、地元での反響の大きさをも背景に、CD化が決定したらしい。

その名前を聞くとうらやましい限りのミュージシャンやアーティストたちが参加している「おきなわのホームソング」。第一弾・4月の歌として生まれた『走(は)え~ゴンゴン』をはじめ、4曲とそのカラオケを収める予定だそうだ。


・タイトル:「おきなわのホームソング 1」(仮題)

・収録曲
 4月の歌:『走(は)え~ゴンゴン』
    作詞:上原直彦
    作曲:ジョージ紫
    編曲:上地等/島袋優
    歌:比嘉栄昇と子どもたち


 5月の歌:『ユンタクハンタク』
    作詞:ちはる(Kiroro)
    作曲:ローリー(THE WALTZ)
    編曲:上地等
    歌:紅いも娘


 6月の歌:『へんなのマムヤー』
    作詞:下地勇
    作曲:TAKUMI(ビートルクラッシャー)
    編曲:上江洲安浩
    歌:川満聡


 7月の歌:『ガジマルオジー』
    作詞:新城俊昭(島袋優さんの高校時代の恩師)
    作曲:島袋優
    編曲:内田勘太郎(元憂歌団)
    歌:大工哲広


発売は7月25日。価格は税込み¥1,500也。


BEGINのHPにも紹介してあったので、確実な情報だと思われまする。

  → BEGIN OFFICIAL WEB SITE


4曲、いずれも特徴があって聞き込める歌。『ユンタクハンタク』はトランペットやサックスなどのブラスの音がベニー・グッドマン楽団してて楽しいし、『ガジマルオジー』は八重山民謡の第一人者 大工哲弘さんの方言混じりの唄がなんとも言えない味をかもし出す。

各曲には踊りがついたり、オンエア用にアニメ・バージョンが作成されたり。6月の歌を作詞した下地勇さんは踊りの撮影に立ち合ったことを自身のブログに書いている。

  → 下地勇さんのブログ

7月の歌『ガジマルオジー』のアニメは人形アニメ。読谷村出身で、6年間にわたりハリウッドで腕を磨いた比嘉ブラザーズが担当している。この双子の兄弟、知る人ぞ知るふたりらしい。失礼ながらぼくは知らなかったけど、人形を1ミリ単位以下で動かしながらひとコマひとコマ撮影していくその緻密さに驚愕。

ケンカをするキジムナーと人間の少年に、「ケンカはやめな」と諭すガジマルオジーの口の動きがかわいか~。でも、ぼくが見たのは完成途中の、ホンの一部。全部見たかぁ。

アニメや踊りもDVD化してもらわんと欲求不満になりまする。
が、7月以降も第二弾、第三弾とリリースされることだろうし、いずれDVDも出るに違いない。楽しみにして待ちましょう!




きのうに引き続いて「賞」の話。

ギャラクシー賞という「賞」がある。これは「放送批評懇談会が日本の放送文化の質的な向上を願い、優秀番組・個人・団体を顕彰するために、1963年に創設」した賞(HP丸写し。詳しくは こちら )で、きのう、少し触れた民間放送連盟が主催する日本民間放送連盟賞と並び、放送に携わる人間が目指す「賞」だとされている。

日本民間放送連盟賞は全国を七つのブロックに分け、ジャンルごと(テレビならば「報道」「教養」「エンターテインメント」)に一等賞を選出。全国から集まった7番組からジャンルごとの最優秀賞を選ぶという形を取っている。

それに対し、ギャラクシー賞はNHKも含めた全国の放送局を対象に、ジャンルを分けずに年間14本(上期7本、下期7本)をまず選出。そして、5月の末に行われる最終選考会で最優秀賞(大賞と呼んでいる)など各賞が決められる。

ジャンルを分けないということは、ドラマもバラエティもドキュメンタリーも同列にそのおもしろさ、深さ、広がり、時代性、真摯度(なんて言葉はあるのかな?)などを問うことになり、選ばれる14の番組も種々雑多。大賞を受賞した番組を見ても、2004年度が東海テレビのドキュメンタリー『とうちゃんはエジソン』、おととしは日本テレビの『笑ってこらえて』。そして昨年はTBSのドラマ『タイガー&ドラゴン』が大賞だった。ごちゃまぜなだけに、選考結果は興味深いとも言える。

今年の大賞にはNHKスペシャル『ワーキングプア~働いても働いても豊かになれない』が選ばれた。この番組はぼくも見たけど、おもしろかった。テーマはまさに今・現在だ。きちんと取材されていたし、しっかりかっちりと構成もされていた。「なるほどねぇ…」と考えさせる番組だった。制作側の「熱さ」は感じなかったけど。

今年のギャラクシー賞には、制作に参加した番組が14本の中に選ばれた。琉球放送制作の『かっちゃん~還暦越えのロックンローラー』。元・コンディショングリーンのボーカルで、今もステージに立ち続けているかっちゃんの半生を振り返り、今を感じようというもので、大賞に選ばれたNHKの番組とは正反対に、制作側の熱い思い入れだけで成立しているような番組。「賞」というものには馴染むはずもないと思っていたので、選ばれたことはとても嬉しかった。

今年、ギャラクシー賞の各賞を受賞した14本は、NHKが5本を占めているけれど、民放キー局は1本だけ。あとはローカル局が制作した番組だ。

  → 第44回ギャラクシー賞 受賞作品

この賞に限らず、番組コンテストの結果を知るたびに思うのだけど、ローカル局の番組を、せめてこうした受賞作品だけでも見ることができないもんだろうか? 『かっちゃん~還暦越えのロックンローラー』が制作側の思い入れで突っ走って成立したように、他のローカル局発の番組もそれだけの「熱さ」があるはずだ。それをぜひ見たいし、できる限り多くの人に見てもらいたい。

でも、見ることができないんだなぁ、これが。

受賞作品はその局で再放送されることはあっても、他局で流れることはまずない。『かっちゃん~』なんて、沖縄県以外の人たちが見ても興味深い内容なのになぁ…。

何度も同じことを書いているけど(例えば 2005.10.06「賞、賞、あぁ賞」 )、「賞」をもらいました、記念に自局で再放送しました、では倉庫の中で永遠の眠りにつきま~す、じゃ惜しいと思う。

ローカル局の自社制作番組の比率は10%に満たない。その中で得たの「賞」なのだから、もっと使い道があるんじゃないだろうか? 制作力があることを対外的にも言えるだろうし、営業ツールとしても使えるだろう。

なんでもいい、どんな方法でもいいから、たくさんの人に見てもらいたい。視聴率が取れないとよく言われるけれど、流し見じゃなく、きっちり目を見開いて見てくれる能動的視聴者は少なくないはずだ。それが、番組の宣伝もせずに単発でサッと流してハイ終了じゃぁ、接したくてもそれすらできないじゃないか。

全国一斉ネットは望まない。せめて、系列内での番組交換くらいやって欲しいし、やるべきことだ。

ローカル局の倉庫で眠ったまんまのシンデレラ姫を起こしてやることはできんのかしら。目覚めたら、求婚する人は多いと思うんだけどなぁ。欲目かね?


今年も「賞」の季節がやってきた。

と言っても、民間放送において最も権威があり、歴史もあり、制作畑の人間が一度は欲しいと夢見る(とされている)日本民間放送連盟賞のコンテストに参加する条件が「5月末日までに放送された番組であること」ということだけなのだけど。

ここ数年、長い日数をかけて取材した番組が減っているように思う。参加条件である「5月末日オンエア」に間に合わせるべく、ひと月ちょいで取材から編集まで済ませてしまう番組もあったり。そんなこってエエんかね?と思うけど、そうした番組がポンと受賞したりするからおもしろい。

おもしろいけど、やっぱりきちんと企画を練り、きちんと時間をかけて取材をして、編集もじっくりやらなきゃね。経費節減のせいなのか、はたまた修正が手早く、しかも無限にできるように思えるパソコン導入編集システムのせいなのか、編集期間もどんどん短くなっている。これってヒジョ~にマズイと思う。

長けりゃいいってもんじゃないけれど、ほんの10年くらい前までは、取材に1年、編集に1ヶ月なんて番組は珍しくなかった。まるまる2ヶ月・60日間、朝から晩まで編集室に閉じこもりってな番組もあった。それが「いい番組」となったかは「見る人による」としか言いようがないけれど。

「賞が欲しい」。よくそう言われる。確かに欲しいだろう、ディレクターも、カメラマンも、プロデューサーも。そして、構成係として番組制作に参加するぼくも、賞がもらえるにこしたことはない。いただけるものは何でももらう。それが主義。

でもね。「賞」をもらうために番組を作るってのはどうかと思うな。番組は視聴者に見てもらうために作るんであって、「賞」はオマケみたいなもんだもん。番組って、制作者側(特にディレクター)が抱く、「こんな事実を知って欲しい」とか、「こんな面白い人がいるんだよ」といった熱い思いを視聴者に知らせる手段。ハナから「オマケ」を狙って作るのは本末転倒だと思うのだけど。

そう思うのだけど、「賞」を狙って作る制作者もいる。番組コンテストの審査員の顔ぶれ(普通、事前発表はされないらしい)を調べ、その男女構成比とそれぞれの好みを調査し、番組のウケがよりよくなるように、映像の流れからナレーションの文言まで変えるという制作現場に参加したときは「エライ」と思った。それもまたひとつの番組作りの方法だろうから。

しかし、その番組は「賞」をとれなかったけどね。





昨年からこの5月末にかけ、いい番組の制作に参加した。「性同一性障害」を抱えた人たちの話。体の性と自分が心に抱く性とが食い違う性同一性障害。世間には偏見が溢れているから、体は男性・心は女性の人などは「お前はそれでも男か」「チン○、持ってるのか」などと言ってはムリヤリ下半身を裸にされたりといったイジメにあいながら育って行く。

下半身を裸にされる。その恥ずかしさは説明しにくい。体は男性でも、心は女性。女の子が男子生徒に囲まれ、裸にされたとしたら、その恥ずかしさは口にできないほどだろうし、男子生徒たちのその行為はほとんど犯罪だ。

裸にされてしまった下半身。その上、その体は「おとこ」なのだ。「あたしは女性なのに・・・」。

どんな思いがするんだろう? 想像するしかないのだけれど、想像がそこへ及ばない。

番組は「自分は女性」だという思いを押し殺し、男性として生き、結婚し、子どもをもうけた人が「それでも私は女性」という思いを、顔出しで話してくれる。自分を女性だと思うこと自体がおかしなことで、きちんと結婚し、子どもができれば自分は治るんだ、そう思って男性として生きてきた思いを語ってくれる。そして、自分の男性としての体への強い違和感が消えなかったこと、自分が女性であるという思いを消せなかったことを語ってくれる。

その人の奥さんも顔出しでインタビューに応じてくれた。娘二人も、取材当初は顔出しOKだったのだけど、親としてやっぱり結婚前の娘を気遣ったのだろう、編集中に「顔出しはやめてください」とディレクターに連絡が入った。残念だった。とってもいいインタビューだったから。

父親が、実は心が女性だったと知った娘たちはこう言ったという。

「お父さんは男だから。だから、もうお父さんじゃない。顔も見たくない」

かつてそう言った長女はインタビューでこう話してくれた。

「やっぱり、家族だから・・・・お父さんとお母さんは世界にひとりしかいないから」

そう言って、長女は涙した。素直な、素敵な言葉だった。顔出し不可がメチャメチャ惜しい。でも、それは制作者側のエゴだろう。話してくれただけでも「ありがとう」だ。


性同一性障害を持つ大学院生も登場する。体は男性、でも心は女性の彼女は、大学の教授から「男のくせに、気持ち悪い」と言われ、就職試験では志望者4人の集団面接でただ一人、一度も面接官から質問を受けることがないなどの差別をされたあげく、志望する企業・団体にはどこにも就職することができなかった。

それでも、いずれ心の性に合わせる手術(性別適合手術)を受け、女性として生きようと決心している彼女は決して暗くはない。心の性で生きていく未来があるから。同時に、避けられない不安もある。将来、恋人ができ、結婚を考えたときに、自分は子どもを産むことができないということを相手に告げなければならない。男性の体を女性の体にしても、卵巣や子宮を持たない彼女には子どもができないのだから。


そんなこんなで作り上げた1時間番組。オンエア時間を聞いてガックリ、落ち込んだ。

「27時17分」

何時のなの、それ? え? 午前3時17分? そんな丑三つ時に誰が見てくれるわけ?

心と体の性が違うという生まれついての辛さを抱えた人がいる。心が男性の人は「できるものなら胸なんか引きちぎってしまいたい」と思うほどに悩み苦しみ、心が女性の人は周囲の奇異の眼差しに耐えながら紅を引き、スカートを履き、生きようとしている。どうにかして心の性で生きて行きたいと海外にまで出かけて手術を受ける人がいる。

ディレクターは取材対象者の元に足繁く通い、顔出しでの取材の了承を取り付け、海外で手術をする人に同行し、手術室の中にまで入ってカメラを回した。そうまでしたのは「心の性で生きたい」という思いを出来る限りの多くの人に知らせたいという願いがあるから。

それが、オンエア27時17分? 友だちにだって「見てちょうだい」って言えないよ、そんな時間。制作に参加したぼく自身さえ、その時間まで起きてオンタイムで見ようとは思わないもの。


「賞」が欲しいという気持ちは理解できる。でも、「見てもらう」相手が審査員だけのような番組作りでいいのかな? 審査員が「素晴らしい」と言ってくれるのももちろん嬉しいけれど、それよりも視聴者に「他の人にも見せたい、見て欲しい」と言ってもらえる方がずっとずっと嬉しいな。

あの番組は、オンエア終了後は局の倉庫で眠りにつき、未来永劫、人の目に触れることはないのだろうか? もったいなや、もったいなや・・・・・。

あ、「賞」をもらえば、記念の再放送があるかもね。
それも27時ってこたぁ、ないよねぇ?

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