番組構成師 [ izumatsu ] の部屋

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*スタッフと“同じ想い”にならないために。

番組の主人公が現存する人の場合、ディレクターから「一度、あってもらえませんか?」と頼まれることがちょくちょくあります。

そのほとんどの場合、ぼくは断ります。

その一番の理由は、ディレクターやカメラマンなど制作最前線のスタッフと同じ感覚、同じ想いになりたくないから。

いや、「なりたくない」と言うより、「なってはならない」と思っているからという方が正解でしょうか。

最前線のスタッフは自分の思いを取材対象者に投影する、というか、取材対象者に感情移入をする場合が多いのです。

それは、より深く話をきこうとする取材者としては当然のことですし、相手の心のひだに触れ、そのひだに隠れた思いを口にしてもらうには欠かせない姿勢だと思います。

いきおい、最前線のスタッフは取材対象者にシンパシーを感じることが多くなります。きっと、ぼくが取材対象者に会った場合も、同様に共感を覚えることでしょう。

それが、まずい。

ぼくが最前線の彼ら彼女らと同じように、取材対象者へ感情移入してしまうと、構成係という第三者としてのぼくの目が制作の現場に入る意味が無くなる。そう思うのです。


*「異質な眼」として。

ぼくが構成係として番組制作に携わる場合、ぼくに課せられた一番の使命は「異質な眼」を制作現場に持ち込むこと。それしかありません。

ぼくの視線、ぼくの感覚が、ディレクターなど最前線のスタッフと同じであるならば、ぼくの存在理由はありません。どうかすると制作の進行を追認するだけの「イエスマン」になってしまいます。

それは、まずい。

ぼくは制作過程の中で、可能な限り“異物”じゃなくちゃダメ。

取材現場の人間は、取材者であり、同時に取材対象者と共に当事者でもあります。でも、視聴者は第三者。第三者の眼って、結構冷たいです。

当事者同士の共感の中で作られた番組がひとりよがりにおちいることなく視聴者の共感をも取り込むには、取材対象者の言葉や映像をどんな風に織り込みつつ番組のテーマを少しずつ浮き彫りにしていくかを考えねばなりません。

そこには“異物である第三者の冷たい眼”が不可欠だと思います。

もちろん、取材陣と取材対象者とが共感共鳴しうる取材現場だけではありません。いや、そんな取材現場の方が少ないでしょう。

その場合でも、構成係は取材陣が取材対象者に持つのと同じような感覚にならない方がいいというのがぼくのスタンスです。


「そういうのもありだけど、こんな見方もあるんじゃない?」

取材を終え、いざ編集に入ってから、そんな風に言えるために、ディレクターたちと同じ感覚を持たないようにしたい。

そして、ぼくのある提案が取材対象者にとって例えばマイナスとなるようなことであっても番組全体として必要だと思った場合、取材対象者の顔が脳裏を横切ることなくその提案を冷たく口にするために、ぼくは取材対象者にはできる限り会わないようにしているのです。


でも、断れなくて会うこともあります。

そうすると、「ディレクターの言うとおり、いい人だ…」なんて気持ちになり、いざ番組の流れを考える段階になって腰が据わらなくなったりします。

心が揺れるのです。


「情に流されやすい」。

要は、ぼくの性情の根幹がただそれだけだということなんですけれども。


<この項は続きます>

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