番組構成師 [ izumatsu ] の部屋


事件が起きると、おとなたちは「なぜだ?」と戸惑う。
その繰り返し。
ぼくが子どものころもそうだったのだろうか?
おとなになった今、混乱する。

小学生が同級生の命を奪う。
想像し難いことが、現実となって目の前に現れる。
おとなたちは、取り乱し、頭をかかえる。

--生命を奪うということはどういうことなのか、
--学校はきちんと教えてきたのか?!

そんな意見が声高に叫ばれ始める。
なんどもなんども経験してきたはずのプロセス。
その繰り返し。

このむなしさは、なんなんだろう。なぜなんだろう。

「命はかけがえのないものだ」

そう、誰もが言うし、教育の現場でも、そう教えているはずだ。
子どもたちも「命はかけがえのないもの」と知ってはいるだろう。
尋ねればそう答えるだろうし、
他の命を奪うことは許されざることだと思っているだろう。

しかし、そこに実感、体感はあるのだろうか?

--命を奪うということはどういうことか、想像力に乏しい。

口々に識者はそう言う。むなしいコメントだ。
それも、誰もが感じている。
日常生活現場での想像力不足は、子どもに限らない。おとなでも同じ。

では、どうすれば「想像力が豊か」になるのか?

“わからない”が続く。


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想像力が乏しい・・・・・・。

想像力があっては生きにくい。現代はそんな時代なんだろうか。

すべてのことに先回り先回りで情報が用意されている。
それは“解答”ではない。
しかし、その情報に接すると「そうなのだ」と、そのまま納得してしまう。

戦争の現場では、建物にミサイルが突っ込む瞬間から、
爆発する様子まで、映像がリアルに“解説”してくれる。
それが何度も何度も繰り返される。

ミサイルが飛び込んだ先には人間がいる、そこで今、生きている。
そこまで、想像力が及ばなくなる。
想像力があったら、そんな映像を見つめてはいられまい。

「飛び出す絵本」というのがある。
ページを開くと、そこに記された物語が立体となって現れる。
情報が先回りしている現代は、その「飛び出す絵本」のようなもの。

絵本から物語を飛び出させるのは、子どもたちの想像力のはず。
なのに、それが前もって準備されている。
子どもは、何を“想像”すればいいのだろう?

準備された想像の世界。
これほどの矛盾はない。


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テレビもそのほとんどが準備された想像の世界。

古代の恐竜が、リアルにのし歩く。
絢爛豪華な貴族の館。その中をぼくらは見て回る。

それらはすべて、CGによって作られたもの。
リアルに見えても、それらはすべてイミテーション。
情報が集められ、データ化され、コンピュータによって計算され、描かれた。

準備された想像の世界。

ぼくが子どものころ、と昔を引っ張り出すのもむなしいが、
恐竜を歩かせるのは、ぼくの想像力だった。
紫式部の装束をきらびやかに仕立て上げるのは、ぼくの想像力だった。
想像することが楽しみだったし、夢を作り上げることでもあった。

その楽しみが準備されている今、想像力をどう羽ばたかせればいいのだろう?


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子どもたちが当事者となった事件があるたびに、
必ず引き合いに出されるゲームの世界。

--人間同士の触れ合いが育まれない。

そんな意見が必ず飛び交う。

ぼくはコンピュータを使ったゲームは、ほとんどしたことがない。
それには理由がある。

以前、ある人気ゲームをプログラミングした人に話を聞いたことがある。
まだ大学生だったそのプログラマーは、
ゲームの楽しさやプログラミングの難しさを語ってくれた。

その話を聞きながら、
「あぁ、ゲームも飛び出す絵本なんだなぁ」
そう、ぼくは感じていた。

数百万個を売り上げたこのゲーム。
それがどれほど奇想天外に展開しても、
それは彼がプログラミングした通りにパソコンが動いているということ。
準備された映像、ストーリーが次々と登場しているということだ。
プログラミングされていない出来事が画面上に登場することはない。

そこにゲームをする人の想像力が広がる余地や時間があるのだろうか?

マンガも小説も、ストーリーは書き手が作る。
しかし、目を止め、空想の世界に浸るのは読み手に任される。
主導権は、こちらにある。

ゲームを楽しむ人は、「同じことだ」と言うかもしれない。
しかし、喜怒哀楽が準備されているとぼくには思えるゲームの世界。
遊びの世界でも、想像力不要になっているのだろうか?


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ジョン・レノンが『イマジン』を歌ったとき、
中学生だったぼくは、すぐに好きになった。
でも、その詞には特に心ひかれなかった。

「想像力で世界をかえることができる」

その主張が、あまりにあたり前のことに思えたから。

それが、どんどんどんどん“あたり前”ではなくなって行った。
9.11のときには、放送自粛の対象となった。

ぼくの想像力では、とても及ばない現実の世界。
そんな世界で、想像力を育むには、どうすればいいのだろう?

わからない。

わからないが、これだけは言い続けなければならないだろう。
たとえ、むなしくとも。

--殺すな!


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大きな記事のとなりに、そっと、小さなベタ記事が。

「小5女児、飛び降り自殺?」

悲しみと混乱だらけだ。

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izumatsu先輩、こんにちは。

今回の事件の当事者たちが自分のこどもと同世代なだけに、
とても人ごととは思えず、何といっていいのかわかりません。
でも、今の世界はどこか狂っている。
それだけは確かだと思う。
当たり前だったことが、当たり前でなくなっていく怖さ。
それに気づいている人たちはどれくらいいるのだろう?

izumatsu先輩の日記、トラックバックさせてください。
本当は日記中リンクの方がいいのかもしれないけど。

2004.06.02 10:11 URL | うるとびーず #79D/WHSg [ 編集 ]

人間関係のトラブル、問題解決。

 言葉を使って、感情をコントロールして折り合いをつける。この過程でやはりおっしゃるとおり想像力を働かせて、よりベターな結果に近づけていく方法を学習しなければ暴力的手段の応酬になるんだと思います。

 感情的な言動で傷つけられた経験を重ねると、子供は自分を守るためあるいは押し通すために攻撃することを覚えるように思います。
 

2004.06.02 11:19 URL | やまじゆみこ #79D/WHSg [ 編集 ]

こんにちは。

佐世保の事件は「私は誰も殺したくないし、誰からも殺されたくない」というしかありません。
私も今日の日記は「殺すな!」でした。

前に「どうして人を殺してはいけないのか?」
ということをテレビ番組で質問した少年がいました。
その質問自体が驚きですが、もっと驚いたのは「有識者」であるはずの近くにいた大人がその質問に答えられなかったことです。
これでは小学生ばかりを責められません。

それでは。

2004.06.02 18:00 URL | りゅうちゃんミストラル #79D/WHSg [ 編集 ]


こんばんは。
私も今回の事件は・・・いろいろと考えさせられました。
殺すまでもいかなくても、似たようなケースはもしかすると普通に見られる光景なのかもしれません。

想像力、これは確かに大きな原因かと思います。
前回のイズマツさんの日記にもあったように、
「電車の中で化粧をする」これは、ハタから見て嫌な人も多いわけですが、
実際に化粧をしていた人はそういう想像もしないでしょうし、「他人だからどうでもいい」となるのでしょう。
私は正直父親に殺意が芽生えたことがありますが、
「私が犯罪を犯したら妹も一生定職に就けずお嫁にもいけないなあ」と思いました。
ギリギリの想像力です。

私の上司などは、「後任としてこの後輩を伸ばそう」と思えなくなったと言っています。
皆いずれはその場所から離れ、関係ない人となる、
その認識は、社会に求められている常識になりつつあります。

こういう問題は、原因はあげられるものの、
その解決策や実行はなかなかなされません。

私の個人的な意見ですが、
「自制心」というものは、地域や学校・家庭を通して10歳くらいまでに肌で感じ覚えるもので、
それ以降の教育に非を見出しても仕方ないような気がしてしまいます。

大人が変わらなければ子供も変わりません。

2004.06.02 21:06 URL | じゃんばらや5933 #79D/WHSg [ 編集 ]

★うるとびーずさん、おいでませ。

>izumatsu先輩、こんにちは。
>今回の事件の当事者たちが自分のこどもと同世代なだけに、
>とても人ごととは思えず、何といっていいのかわかりません。

ぼくには子どもがいませんが、やっぱり、言葉を失いますね。

>でも、今の世界はどこか狂っている。
>それだけは確かだと思う。
>当たり前だったことが、当たり前でなくなっていく怖さ。

最近、ぼくが“あたり前”って思うのは、ぼくにとってだけなんじゃないかと思うようになりました。
今の子どもたちには、今の“あたり前”があるのでは?
ぼくにとっての“あたり前”で出来事をとらえていいもんか、悩みますね。

2004.06.03 21:50 URL | izumatsu #79D/WHSg [ 編集 ]

★やまじゆみこさん、おいでませ。

> 言葉を使って、感情をコントロールして折り合いをつける。この過程でやはりおっしゃるとおり想像力を働かせて、よりベターな結果に近づけていく方法を学習しなければ暴力的手段の応酬になるんだと思います。

相手を前にして折り合いをつけることって、
場数を踏まないと上手になりませんよね。
折り合いのつけ方って、「教えよう」とプログラムを組んで
教えられるようなことでもないでしょうし。
実体験できない社会になってきてるんでしょうか?

> 感情的な言動で傷つけられた経験を重ねると、子供は自分を守るためあるいは押し通すために攻撃することを覚えるように思います。

傷つけたかどうかというのは、受けた方しかわからないことが多いですよね。
「私は傷ついた」ということを発信することはとても大切だと思うのですが、
その方法も実体験できないんですよね、きっと。
誰しもトライ&エラーで成長すると思うんですけど、
エラーが許されない世界にぼくらは生きてるのかもしれません。

2004.06.03 22:01 URL | izumatsu #79D/WHSg [ 編集 ]

★りゅうちゃんミストラルさん、おいでませ。

>こんにちは。

はい、初めまして、ですよね?

>前に「どうして人を殺してはいけないのか?」
>ということをテレビ番組で質問した少年がいました。
>その質問自体が驚きですが、もっと驚いたのは「有識者」であるはずの近くにいた大人がその質問に答えられなかったことです。
>これでは小学生ばかりを責められません。

ぼくは“答えられない大人”のひとりですね、きっと。
「どうしてもなにもない、人の命を奪ってはいけないのだ!」
そう、ガンと言い切れる自信はありません。
それは、ぼくもその少年と同じような疑問を持ったことがあり、
ぼくが少年の頃もきちんと答えてくれる大人はいなかったからです。

大人になってからはっきりわかったのは、
歳を重ねている人を大人と呼ぶだけで、
決して成長しているわけではないのだな、ということです。
小学生と共に悩むだけですね。

2004.06.03 22:08 URL | izumatsu #79D/WHSg [ 編集 ]

★じゃんばらや5933さん、おいでませ。

>殺すまでもいかなくても、似たようなケースはもしかすると普通に見られる光景なのかもしれません。
>「電車の中で化粧をする」これは、ハタから見て嫌な人も多いわけですが、
>実際に化粧をしていた人はそういう想像もしないでしょうし、「他人だからどうでもいい」となるのでしょう。

「あんた、想像力、あんの?」
そんな場面に、毎日のようにめぐり合います。
それは、面白いことでもありますが、悲劇の場合もあるのですね。

>私は正直父親に殺意が芽生えたことがありますが、
>「私が犯罪を犯したら妹も一生定職に就けずお嫁にもいけないなあ」と思いました。
>ギリギリの想像力です。

その時のじゃんばらやさんのように、
「こうしたら、こうなるから、結局、こうなる」
そんな、段階的な考え方を、子どもたちはしないんでしょうか。
間を飛ばしてるような感じがしますよね。
「起承転結」ではなく「起 → 結!」みたい。

>こういう問題は、原因はあげられるものの、
>その解決策や実行はなかなかなされません。

誰もが(ぼくもですけど)評論はできるけど、具体策を提示できません。
「時代の動きさ」と冷徹に見る人が正解なのかな?とも思ったり。
そう思うときがあるってことが、コワいです。

>私の個人的な意見ですが、
>「自制心」というものは、地域や学校・家庭を通して10歳くらいまでに肌で感じ覚えるもので、
>それ以降の教育に非を見出しても仕方ないような気がしてしまいます。

妙な言葉ですけど「痛い目をみないと、痛さはわからない」んですよね。
体験しないことを感じろと言うほうがムリでしょう。
じゃ、どうすれば体験できるのかっていうと・・・・・難しいですねぇ。

2004.06.03 22:16 URL | izumatsu #79D/WHSg [ 編集 ]













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