番組構成師 [ izumatsu ] の部屋



朝からどんより、降りそで降らない。
ときには青空がちょろと顔を出し、気温は高く、湿度も高い。
こんな中途半端な日は、ぼくのアタマは機能しない。

数日前に送ってきた取材テープを午前中に見ていたころはアタマも好調だったけど、買い物に行っている間に天候がころころ変わり、そのあたりからアタマが「動きとうない、働きとうない」と言い出した。

カラダの言うことは素直にきくというのがぼくのモットー。アタマもカラダ。働きたくない者をムチ打っても結果なんらプラスにならないことは、ぼくの会社員生活が証明しているので(ぼくだけにあてはまる結果だけど)、午後はテレビを前にひたすらゴロゴロ。

ほんとはこんなとき、眠ればいいのだ。しかし、眠れんくらいにアタマは働きたくないのである。目玉から入る情報を処理するのも面倒になるらしく、だからかえって余計なことを思わずに例えばテレビの画面に展開されるサッカーというスポーツを見つめられるという利点があったりもする。

アルゼンチンの6点はすごかった。自在に通るパスも素晴らしいけど、いつの間にやら?と思わせる守備への戻りが目を見張らせる。これが運動量の違いっていうヤツかな。3点を取ったところで勝負あり。あとの3点はおまけのようなものだけど、それぞれに素晴らしいゴール。18歳のメッシが最後の最後に得点するところなぞは、「できすぎ」の感も。

しかし、ときにTVカメラに抜かれるマラドーナ氏の、むくむく横に広がった(それでもかなり締まった)顔と体を見るにつけ、若くしてトップに登りつめた人の、その後の身の振り方の難しさを思う。

マラドーナも伝説の5人(だったかな?)抜きや「神の手」プレーなどがなければ、その後の人生を穏やかに送れたろうに。どっちが幸せか、陽水が歌うように“人生が二度あれば”その判断はつくけれど、いかんせん、一回しか人生はないもんね。

でも、“その後”の身の振り方は、個人の持つ資質と周囲の配慮にかかるんだろうなぁ。神様ペレはスポーツ大臣に就任したり、神様を卒業したあとも外目にはまっとう以上の人生だ。不思議だな。

セルビア・モンテネグロは、この国名では最初で最後のW杯。モンテネグロが住民投票の結果、独立することが決まったから。クロアチアも含め、セルビア、そしてモンテネグロと、旧ユーゴスラビア勢が三カ国出場することも考えられるなぁ。これに、ボスニア・ヘルツェゴビナも入るとすごいけど、それはちょっとムリかしらん。

仕事でユーゴをクロアチアを訪ねたとき、クロアチアの首都・ザグレブには砲弾が撃ち込まれた直後だった。大きな被害は出なかったと案内してくれた人は説明してくれたけど、着弾したところは体育館で、そこでバレー(踊りの方)の稽古をしていた女の子たちが負傷し、うち何名かはダンサー生命が絶たれるおそれがあるとも言った。それって「大きな被害」じゃないの?と思ったけれど、死者が出るのが「普通」の戦争状態にあっては、誰も死ななくて良かったということになってしまうのだなぁとそら恐ろしくなった。

日本の次の対戦相手・クロアチア。その国の紹介ビデオには、ぼくが着弾痕を見たところからほんの1、2分の広場が必ず登場する。国旗にもある白と赤のチェック模様に彩った服装をした若い女性たち、顔にもその図柄を描いた子どもたち、そんな人たちの姿を見ると、あの闘いってなんだったのかなぁと思ってしまう。でも、彼らは言うだろう、あの闘いがあったからこそ、自分たちは自分たちの国を持つことができたんだと。

クロアチアも旧ユーゴ、現セルビアも話している言葉は同じ。でも、それを文字にすると違う。そう聞いていたけど、意味がよくわからなかった。でも、行ってみて、なるほどねと思った。クロアチアの首都・ザグレブにも、セルビアの中心都市・ベオグラードにも同じ名前の通りがある。発音も同じだ。しかし、表記が違う。キリル文字となんとか文字(忘れた)。

同じ通り名で、発音も同じなのに、文字にすると違うのだ。人はアタマで文字を使って考える(それは違うという人もいる)ので、文字の違いは直接文化の違いだ。見かけは同じでも、しゃべってる発音さえ同じでも、それぞれ独自の、固有の文化を持つ。それがときとして軋轢を起こす。

文化ってむずかしいや。

なんてことを、ぼんやり思いつつサッカーを眺め続ける。

ネコ助はテレビの上で、寝ころんだぼくを見おろしつつ思う。


ao060617「おもろいか?」


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